羊 狼 通 信 ブックレビュー&ガイド 2017年02月 006/120

5年かけて『ファインマン物理学』を読む:1年目「Ⅰ力学」



「”星も地球にあるのと同じ原子からできている“.私はいつもこのような小さな話題をとりあげて話を進めることにしている.物理学は星の美を色あせさせ,気体原子の単なるかたまりにしてしまうだけだと詩人はいう.しかし”単なる“で片付けられるものはない.私といえども砂漠の夜,星を見,それに心を動かされる.しかし私のみるものは,それ以下なのか以上なのか? 広大な天をみていると私の想像はひろがる――この自然の大饗宴にひきつけられ,私のかよわい目にも百万年昔の光が入ってくる.広大な世界――私もその一部分である――,私のからだを作っているものは,大昔の忘れられた星からとび出したものであるかも知れない.今でも星からものがとび出している.あるいはパロマの大きい望遠鏡でみれば,星はみないっしょになっていた同一の出発点からひろがっていくことがわかる.それはどんな有様か,意味は何か,何故か? それについて少しばかりわかったとしても,神秘はそこなわれはしない.真理というものは,過去のどんな芸術家が考えたよりももっとすばらしいものなのである.現代の詩人は何故それを語らないのか? 木星が人間に似たものであるならば,それについて語っていいが,メタンやアンモニアがたくさんぐるぐるまわっているものであるならば,黙っていなければならないというなら,詩人とは何だ?」『ファインマン物理学Ⅰ力学』42p「第3章 物理学と他の学問との関係」「3-4 天文学」注 より)
「いま,非常に複雑な力学系があるとしよう;一つのバネに一つのおもりがついているだけというようなものではなく,いくつかのバネにいくつかのおもりがついていて,それらが互いに連結されているものとしたら,いったいどうすればいいだろうか? 解く? それもいいかもしれない;しかし,まあ考えてもみたまえ.我々が取り扱おうとしているものと同じ方程式を持つ電気回路を組むことができるのだ! 例えば,バネにおもりがついている場合を取り扱おうとするならば,電気回路を適当に組んでインダクタンスがおもりの質量に比例するようにし,抵抗はそれに対応するmγにに比例し,1/Cはk比例するようにし,それらの比がすべて等しくなるようなものにした方がよいのではないか? そうすれば,当然この電気回路は,Vに対応して(Vもまたはたらいている力に対応するようにしてある),qがどのように変わるにしても,xもまさにそのとおりに力に応答して変わるであろう.こういう意味で二つのものは全く同等である! したがってたくさんの素子がいろいろな具合に連結された複雑な代物のときには,抵抗やインダクターやキャパシターをたくさんつなぎあわせて,力学的に複雑な系を真似すればよい.こうすると,どんな利点があるのだろうか? 互いに全く同等であるから,どちらの問題も同程度に難しい(あるいはやさしい)筈である。電気回路が使えることをみつけたことによる利点は,数学的な方程式を解くのが少しでも容易になったというようなものではない(もっとも電気技術者たちはそうしているのだが).この等価性に注意していた本当に理由は,電気回路の方が組むこともやさしく,また系の中で何かを変えることもやさしいからである.
 いま,我々が自動車を設計したとして,それがどこかのデコボコ道を走るとき,どれくらいゆれるかを知りたいものとする.そこで,電気回路を組んで,インダクタンスで車輪の慣性を代表させ,車輪のバネをあらわすのにはバネ定数をキャパシタンスで代表させ,また,ショック・アブソーバーは抵抗で代表させる.自動車の他の部分もこのように代表させる.次に、デコボコ道がいる.よろしい.それでは発電機から電圧をかけて,それでこういったデコボコをあらわすことにしよう.そしてどれが適当なキャパシターの電荷を測定して,左側の車輪がどんなふうにガタガタするかをみてみよう.測定してみたら(これは容易なことである),すこしデコボコがひどすぎることがわかったとする.さて,ショック・アブソーバーをもっとつけるべきなのだろうか,あるいは減らすべきなのだろうか? 自動車のような複雑な代物を取り扱っているときに,アブソーバーをとりかえて,また方程式をはじめから解きなおすのだろうか? どんでもない! ダイヤルをまわすだけでよい;たとえば10番目のダイヤルは3番目のアブソーバーに対応している.そこでアブソーバーをふやしてみる.ガタガタは一層ひどくなった.――よろしい.それでは減らしてみよう.まだわるい;それではバネの硬さを変えてみよう(例えば17番目のダイヤル).というようにしてこういったものを電気的にみな変えてみるのだが,それにはツマミをまわすだけでよい.
 これはアナログ計算機というものである.これは解きたい問題を,他の問題に真似て解こうというもので,そのものは同じ方程式に従うけれども,別な自然現象に属し,作るのも,測定するのも,調節するのも,こわすのも(!)容易なようなものである.」(同書342p「第25章 線型の系とまとめ」「25-4 物理学における類似」より)

耳鳴りの鳴る訳
 ときどき耳鳴りの鳴る訳について考える。年に何度か突然の耳鳴りに襲われたとき、そういえば耳鳴りの原因や仕組はまだ解明されていないんだっけ、と思い出す程度に。
 そもそも、耳鳴りとは何なのだろうか?ヒトという動物種に耳鳴りという身体現象があることは間違いないだろう。たとえば英語だとear ringing とか tinnitus という表現になるらしい。多くの言語に耳鳴りを表現する言い回しがあるのではないか。
 私たちは自分以外の誰かの耳鳴りを聞くことはできない。今まさに耳鳴りしている当人には悩ましくも明らかに存在する音が、周囲の誰にも物理的な音として届くことはない。耳鳴りの音質や音量を計測できるようになったという話も聞いたことがない。私たちが聞く耳鳴りの正体は、一体なんなのだろうか? そもそも、私たちは本当に耳鳴りを「聞いて」いるのだろうか?
 2017年2月現在58歳の私が、耳鳴りの鳴る訳について考え始めたのは、1980年代後半である。日本の年代でいうと昭和の末期・平成の始まる頃。私は関西に住んでいた。もちろんそれ以前から耳鳴りを経験していた。なぜそのとき、30歳前後になって初めて、耳鳴り(の存在)が気にかかるようになったのか。その理由は特定できる。
 「耳鳴りの波形は正弦波」と思うに至ったからだ。
 その頃の私はほとんど毎日、様々な周波数の、波長波高波形を目にし、その音を耳にしていた。発振器で電気的に作り出される正弦波の波形・音声も馴染のものだった。『ファインマン物理学』中では「オッシロスコープ」として登場する機器を毎日使用して、電子機器の修理の仕事をしていたのだ。(ファインマンはその機械について、「振動周期が1秒よりも短くなると,その振動を数えるには,何とか工夫して我々の観測能力を拡大しなければならない.その工夫の一つは例えば陰極線オッシロスコープであって,これは短時間をみる顕微鏡のようなものである」と表現している。)
 耳鳴りの周波数に近い音を、空中に伝わるリアルな音として耳にし、その物理的な波形をオシロスコープの画面で目にする日々の中で、なにかの拍子に我が身の耳鳴りが襲ったのだろう。それが正弦波の音にごくごく近いものだったわけだ。
 そこで、ついつい考えた。
 「なぜ私たちは、ときどき頭の中で正弦波を発振させ、その音のない音を聞いているのか?」「どうやって私たちは、頭の中で正弦波を発振させているのだろうか。どうやってその正弦波の音を聞いているのだろうか?」「いや待てよ、頭の中で常に正弦波が発振されてて、何かの機械のクロック振動子みたい感じで、それでたまたま体調が崩れたりしたときに、制御フィルターが壊れるような感じで、漏れ聞こえるとか。いやいや、実は同じ波形の正弦波が二つ発振されていて、いつもは位相反転して打ち消し合っているのが、何かの拍子に片一方の正弦波が…、…」。きりがないので止める。

 ともかく当時の私はサービスエンジニア=修理技術者として、大阪日本橋の電気街で会社勤めをしていた。ところが私は私立文系大学国語国文学科の出身だ(ちなみに卒業論文の題材は『徒然草』だった)。いうところの畑違いそのものである。なぜそんな羽目にという顛末は本筋とは関係がないのではぶくが、当然ながら状況的に否が応でも電気の事を勉強しないわけにはいかなくなっていた。
 ところが意外と、畑違いのはずの電気の勉強は楽しいものだった。電気街で電気の本を買って一応読みもしたが、なにせ手近に様々の電気回路が組み込まれた電子機器と、その各機種に対応した地図や見取り図ともいうべき回路図が、ちゃんと一式揃っているのである。それも単一機種ではなく、アマチュア無線機から音響映像機器からまで、旧式機から最新鋭機まで。学校の詰め込み学習的なテキスト素読や暗記からは遠く離れた、これ以上の生きた勉強があろうか。
 さらに、「すべて壊れている」というのがまた素晴らしい。
 目前の機器を前に、回路図を追いながら測定器(含むオシロスコープ)を測定ポイントにあて、その壊れを見つけていく。どこかに宝探し的な子供の遊びの要素があったことは否定できない。やがていずれ小さな発見の喜びに出会うことになる。壊れていたものが自分の手によって蘇生されていくという達成感もある。
 一方でそれは、自分の無知無能を否応なく自認自覚させられる、つらい仕事でもあった。やはり、根本的なところで、その仕事が自分のものとはとても思えなかった。なぜならそれに向いた周囲の優れたエンジニアとの技能・技術の差は、自分自身を含め、誰の目にも明らかだったのだから。暗中模索と自問自答を続けながら、自分なりに電気の勉強に励むしかなかった。

 何年か後に、ふと気が付いた。
 「自分は、物理の勉強をしているのか!」
 あまりに遅い目覚めである。とはいえ目が覚めてしまった以上、眠っていたときに読んでいた本とは違う本を探さねばならない。一般の大型書店、具体的にいうと難波の旭屋書店なんばCITY店、まで足を伸ばし、基礎的な物理学・数学の本を探すようになった。文系に進路を決めたときには、あれほど毛嫌いしていた学科たちだというのに。
 そこで出会ったのが、ヒッポファミリークラブ『フーリエの冒険』だった:『フーリエの冒険』トランスナショナル・カレッジ・オブ・レックス編(言語交流研究所 ヒッポファミリークラブ 1988)。多言語習得の過程について考えるうちに、人間の音声そのものに興味を感じた若者たちが、好奇心探究心をバネに、音声とはなんぞやとフーリエ解析について学んでいく、という内容だ。大半が理系の人達とはとても言えない若者たちの「珍道中」が、しかししっかりと音声について学んでいく様子が、生き生きと描かれていた。
 私は『フーリエの冒険』についても、運のよい読者だった。様々の音の波形を、その複雑さと微妙な規則性を、自分のように実際に目の当たりにできる人間はそうそういないだろう。「同じ形をくり返している周期をもった波は、どんなフクザツなものも単純な波がたくさんたし合ってできている。」(『フーリエの冒険』9p)という文中のフレーズを、職場での体験ももとに自然に受け入れることができた。
『フーリエの冒険』の巻末には参考文献のリストがあり、その中の一冊として『ファインマン物理学』が挙げられていた。ファインマンの名前を目にした一番最初の機会だったかもしれない。早速『ファインマン物理学』全5冊を購入した(さすがに電気街では売っていない)。しかも、1990年刊の「特別記念版」で、通常版がソフトカバーなのに対して、そのセットは重厚なハードカバー装丁だった。
 それから四半世紀以上経ったが、実はまだ日本語版『ファインマン物理学』を読み通せないでいる。やはり、簡単な内容ではない。難解なのだ。それでも、全巻、目を通すだけでもいい、読破したいという気持ちはいまだ無くなっていない。一つの念願である。
 ファインマンが亡くなったのは、1988年2月15日。2016年このブックレビューシリーズの開始を機に、日本語訳版『ファインマン物理学』全五冊を、これからの五年で、毎年2月に一冊ずつ読み、レビューしてみたい。
 ご覧の通り、今回がその一回目である。

解るとはどういうことか
 高卒40年生になった今、文系出自の自分が『ファインマン物理学』にこだわり、数式部分では時に寝落ちしながらも読み続けて、なにがあるのだろうか。
 もともとは若い理系学生のための物理学入門テキストを、初老の私は世界を「わかる」ための、あるいは「わかる」とはどういうことかを考え続けること・検証し続けるためのテキストとして読んでいるように自分では考えている。もちろん今の自分には、数式のいちいちなどまったくわからない。いわゆる理系の人が読んで、それらをどれほど理解・咀嚼して、読み進めていくのかもわからない。

 もう何年前のことか、それが大阪でのことか北海道だったのかも覚えていないが、『ファインマン物理学Ⅰ力学』初読時に、内容理解不能のまま字面だけ追うなかで、これなら「わかる(気がする)」と一気に目が覚めた個所がある。
 第10章あたりから、数式の霧の中に入ってしまったものが、「第23章 共鳴」「23‐3 電気的共鳴」で一瞬日が射すのである。そこには電子機器回路で馴染み深い物質的実体、ハンダ付けに励んだ電子部品の形を思い起こすことのできる、抵抗やコンデンサやコイルが登場するのだった。さらにそこからフィードバックして、それまでの五里霧中の里程がちょっと短いものに感じられさえしたのである。
 ファインマンいうところの、「物理学の類似」の実例に、打たれたということになろうか(この文章の冒頭の二つ目の引用をご参照あれ)。
 今回の二読目は十数年ぶりの通読で、同じ個所で同じ覚醒を再体験し驚いた。その覚醒自体をすっかり忘れていたことに驚きもした。三読目ではさすがにその覚醒はなかった。一方で、一読目二読目でまったく読んだ記憶のない個所を、内容は理解できないものの文字として認識して読んでいる自分に気付いて驚いた。これはまた違う種類の覚醒である。良くも悪くも。
 来年2018年2月、このレヴューのために『ファインマン物理学Ⅱ光 熱 波動』を読む予定でいる。それが実現すれば、『ファインマン物理学Ⅰ力学』の四読目に挑むことにもなろう。全面的に「わかる」ことはあり得ない(どんな本であっても)。ただ、段々と自分なりに「わかる」ようになっていくのも間違いのないことのようだ。また別種の覚醒とともに。

 歴史学者阿部謹也(1935‐2006)『自分のなかに歴史をよむ』の初版発行は、ファインマンの死と『フーリエの冒険』初版刊行と同じ、1988年だ。発刊間もなく読了した記憶がある。自分にとっての「わかる」の定義は、以下の同書引用部分に負うところが大きい。(引用は、『阿部謹也著作集 9 自分のなかに歴史をよむ 北の街にて』(筑摩書房 2000)より)
解るとはどういうことか
 上原先生のゼミナールのなかで、もうひとつ学んだ重要なことがあります。先生はいつも学生が報告をしますと、「それでいったい何が解ったことになるのですか」と問うのでした。それで私も、いつも何か本をよんだり考えたりするときに、それでいったい何が解ったことになるのかと自問するくせが身についてしまったのです。そのように自問してみますと、一見解っているように思われることでも、じつは何も解っていないということが身にしみて感じられるのです。
 「解るということはいったいどういうことか」という点についても、先生があるとき、「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう」といわれたことがありました。それも私には大きなことばでした。もちろん、ある商品の値段や内容を知ったからといって、自分が変わることはないでしょう。何かを知ることだけではそうかんたんに人間は変わらないでしょう。しかし、「解る」ということはただ知ること以上に自分の人格にかかわってくる何かなので、そのような「解る」体験をすれば、自分自身が何がしかは変わるはずだとも思えるのです。
 学生時代から今日にいたるまで、私は「解るとはどういうことか」という問題について考えつづけてきたといってもよいと思うのです。この問題についてひとつの答えが出たのは、もう三十代も後半のことでした。」
 『ファインマン物理学』のなかにも、「わかるというのはどういうことなのか?」という問いかけが登場する。
「上に,運動の例を二つ述べた.両方とも非常に簡単な考えでうまく記述でき,べつだん深奥なところはないようにみえる.しかし実は深奥なところが,いくつかあるのである.第一に,時間とか空間とかは何を意味するのか? これらの深奥な哲学的の問題は,物理学において非常に慎重に考えなければならなにのであるが,これは決してやさしいことではない.相対性理論によると,空間や時間の概念は,ちょっとみるほど簡単なものではないのである.しかし,我々の現在の目的にとっては,あるいは我々が最初に要求する精度にとっては,ものごとをそう神経質にきちんと定義する必要はない.諸君はこういうかも知れない,”それはひどい話です.――科学ではあらゆるものをきちんと定義しなければならないと習いました“と.しかしどんなことでもきちんと定義するということはできないのである.きちんと定義しようとすると,話が窮屈になってこんなことになる.2人の哲学者がむかいあって話をしていた.1人がこういう.”君は話していることが自分自身にもわかっていないんだ!“ すると相手がいう.”わかるというのはどういうことなのか? 話すというのはどういうことなのか? 君とはどういうものなのか?“等々.」建設的に話を進めるには,我々はだいたい同じ一つのことについて話しているということで意見が一致していなければならない.諸君はいま必要とすることはわかったと思うが,しかしまだ考えなければならぬ微妙なところがあることは忘れてはならない.これについて次に述べる.
 微妙なところの一つは,前にもちょっとふれたが,我々がいまその運動を問題としている点というものは,いつもどこかにあると考えられるとしなければならないということである.(もちろん,我々が見ているときには,点はある,しかし目を離したときには,そこにないかも知れない.)原子の運動では,この考えも,成り立たない――原子には目印もなければ,それが動くのを見張っていることもできない.この微妙なところは,量子力学で処理しなければならない.しかし,いま我々は,そのような複雑なことにふれる前に,問題はどんなことであるかということを考えようというのであって,こうすれば,最近の考えに従って修正を加えるのもやりやすいというものである.そこで,ここでは時間や空間について単純な見方を採用することにしよう.時間とか空間というものが何であるかは,我々はだいたいわかっている.自動車を運転した人ならスピードとは何であるかがわかっているのである.」(同書110p「第8章 運動」「8‐1 運動の記述」 より)
 もう一冊、「わかる」ことについて考えるときいつも、頭に浮かぶ本がある。
 『クォーク 素粒子物理はどこまで進んできたか 第2版』(講談社ブルーバックス 1998)がそれで、2008年にノーベル物理学賞を受賞し、2015年に亡くなられた南部陽一郎の一般向けの著書である。
 その末尾の文章。
「最後に現実にもどって、冷静に現在の物理学と、物理学を追及するわれわれの立場を考えよう。われわれが本当に驚嘆せざるを得ないのは、自然の秘密が次から次へと解明されていくことではなかろうか。宇宙の生誕から一〇〇億年後の一瞬間とも言うべき現在の時期に、その中の物質の一部をなすわれわれが宇宙の法則を見出し、その歴史を知り、物質自身も有限の寿命をもつ一時的存在かもしれないと悟るのは、まことに不思議だと言わねばならない。」


喉歌(のどうた)について
 さて、その後、私はやはり畑違いの仕事をやめて、ひとまず1997年4月北海道にJターンした。
 そこで、二人の理系大学院生の民族音楽ユニット(こう書いただけで「なんじゃそれ」という声が聞こえてきそうである)「タルバガン」と深く関わることになる。「タルバガン」は、ざっくり言ってしまうと、「喉歌」のユニットだ。
 喉歌は、アジア中央部南シベリア・アルタイ山脈周辺の一部遊牧狩猟民族に伝わる、独自の歌唱法である。エモーショナルな歌詞・旋律を持った民謡楽曲の流れのなかで、歌い手が自身の倍音成分(フォルマント)を利用し、地声と倍音の二重唱・ときに三重唱を独りの人間がいっときに演じるという、ユニークなものである。どうしても「神秘・驚異の歌声」的な表現で形容されがちなのだが、物理学的観点から見ればその声(が出ること)自体には、神秘も驚異も不思議もない。
 (「タルバガン」「喉歌」については、前回のレヴュー「すべてのクレイジートラベラーの道はトゥバに通ず All roads for crazy travellers lead to Tuva.」などを参照されたし)

 すべての人の声はフォルマントを含んでいる。たとえば、親しい間柄なら姿は見えなくともその人の声を聞いただけで誰と特定でき、メロディも音程も同じ歌が歌手ごとに違って聞えるのはなぜか。当たり前すぎて改めて深く考えることもしないでいるが、そのなぜかを明解明確に説明するのは難しい。
 拙くかつ単純化した説明をさせてもらうと、特定個人Aさんの地声(声の音程高い低いはこの主音声の周波数で決まる)と、Aさんなりのフォルマントの混ざり具合によって、人はその声がAさんのものだと特定する。メロディは主音声によって歌われ、歌い手の声の個性は主音声とフォルマントの混ざり具合による、というわけである。
 すべての人が、無意識のうちに、自分の主音程をコントロールし、その上に主音声とは違う周波数(高いものも低いものある)のフォルマントを含ませて発声している。聞く方も、主音程のみならず他人のフォルマントの特徴を聞き取って、誰彼かを認識しているということだ。
 それはそれで驚異的なことだ。しかしそれは、ヒトにもともと備わっている能力であり、当たり前のことでもある。
 喉歌の素晴らしさは、喉歌文化圏の人々が、その微妙で微細な倍音成分を聞き取り・拾い上げ・拡張し、ついには芸術性の高い各民族固有の芸能文化にまで高めたところにあると考えたい。彼らは、ヒトが当たり前に持つ倍音成分の、優れてエレガントな活用方法を独自に発見発明したのである。そちらのほうが神秘や驚異や不思議でなくてなんだろう。

 1998年から2005年にかけて、私は「タルバガン」の音楽CDの企画制作者の役割を担った。今はともに音楽家となり「元」がつく大学院生二人と私の共通蔵書が、『ファインマン物理学』と『フーリエの冒険』だった。その共通読書体験によって、良きコンセンサスが作られていた、という気もしないでもない。
 喉歌が神秘でも驚異でもないことは自明で、問題は音楽としてよいものかどうかだった。大切なのは、神秘や驚異を強調することではなくて、エレガントな民族的発明に敬意を払いつつ、また別のエレガントな作品を作り上げることなのだ。
 ――もっとも私は、『ファインマン物理学』全篇を読んではいない。「共通読書体験」は偽りだな(ぜいぜい「共通蔵書」というところか)。
 『ファインマン物理学Ⅰ力学』だけは全体的に目を通したものの、他の巻は拾い読みしただけで読書を断念した。さらには、インターネット古書店を始めていたこともあって、ヤフーオークションで「特別記念版」全5冊を売ってしまったのだが(特装版のせいか高い値が付いた)。「タルバガン」の二人との差はこんなとことにあるのだろう。
 それでも、再び『ファインマン物理学』を購入し、読み始めたわけだ。通常並装版だが。まだ1冊目だが。日暮れて途遠し、ではあるが…。――

以下、「エレガント」であってほしい、引用
 「エレガント」というおよそ物理学のテキストに出てくるには不似合いに思われる単語が、『ファインマン物理学Ⅰ力学』の中に何度か登場する。ファインマンにとっては、自然は、またそれについて記述・研究する物理学は、エレガントなものであるということか。
 『ファインマン物理学』の主著者であるファインマンはまったくユニークな存在で、その強烈な個性に人は魅惑される。『ファインマン物理学』が優れた物理学者・教育者としてのファインマンの本質が現れたものなら、数多く出版されている一連のファインマンの自伝・伝記類は奇人物理学者としてのファインマンの人となりを伝えるものだ。
 そして、『ファインマン物理学』中のファインマンは、その叙述スタイルがユニークであることは間違いないが、「自然」に対してはまったく謙虚で奇矯なところがない。そんな二面性が、一人の人間の中に、無理なく存在することにも、私はエレガントさを感じる。そのエレガントさを愛する。

 以下、素人の私にもエレガントであると感じられた『ファインマン物理学Ⅰ力学』中の文章をそのまま引用して、このレヴューを終わりたい。
 新しい「覚醒」の来たらんことを!
「引力の法則から出てくることがまだ他にもあるか? 木星の衛星についていうならば,それが木星のまわりをまわっている運動のようすが,すべてこの法則から理解されるのである.木星の衛星についてはかつてある一つの問題があったのであるが,それを述べておこう.レーマーは木星の衛星について非常によく研究したのであるが,ときに,ある衛星の運動は予定よりもはやく,また他の衛星の運動は予定よりもおそいことがあることに気が付いた.(この予定というものをきめるには,長い間観測をつづけて,衛星が木星を1周するのに要する平均時間を求めればよい.)予定よりもはやいというのは,木星が地球に近いときであり,予定よりおそいというのは,地球から遠いときである.このことを引力の法則だけから説明しようとすれば,それは極めて困難なことになる――事実,もしも他に説明の方法がないというならば,この見事な引力の法則もこれでその終焉ともなったろう.一つの法則にうまくいかないところが1個所でもあれば,その法則は正しくないのである.しかし,上に述べたくいちがいの理由は非常に簡単で見事なものであった:光が木星から地球に到達するのには時間がかかるから,木星の衛星の運動を我々が見るのは実際よりも,ちょっとおくれているわけである.木星が地球に近いときにはこのおくれの時間は短く,遠いときには長い.木星の衛星が,地球に近いか遠いかにしたがって,平均として予定よりも少しはやかったりおそかったりするのは,この理由によるのである.この現象は光が瞬間的に伝わるものでないことを示したのであって,このことによって,光の速さが初めて決定された.これは1656年のことであった.」(同書97p「第7章 万有引力の理論」「7-5 万有引力」 より)

 「この引力の理論の大成功は,科学の歴史に実に重大な影響を及ぼした.この影響はいかに強調しても強調しすぎるということはない.それよりも以前には,はてることなき議論,パラドックスなどがあった.そのときの混乱,不十分な証拠,不完全な知識と,この引力の法則の明解さと単純さ――すべての衛星も惑星も恒星もこんな簡単な同じ一つの法則に左右され,更に人間がこれを理解し,惑星がどう動くはずかということを導き出すことができるというこの事実――この二つをくらべてもみたまえ.その後,多年にわたって科学が成功したのもみなこの理由である.何故ならば,このことによって,自然界における他の現象にも,またこのような美しく簡単な法則があるだろうという期待がもたらされたからである.」(同書103p「第7章 万有引力の理論」「7-6 キャベンディッシュの実験」 より)

 「しかしこんな簡単な法則でいいのか? そのからくりはどんなものなのか? 今まで我々のしたのは,地球が太陽のまわりをどのようにまわるかを記述することであって,なぜまわるかということについては,全然ふれなかった.このことについては,ニュートンは何の仮説もおかなかった;ニュートンはそのからくりに立ち入ることなく,引力が何をするかということを見出すだけで満足した.それ以来,このからくりについてちゃんとした説をたてた人は1人もない.このような抽象的性質をもっているということは,物理法則の特色である.エネルギー保存の法則も,計算して,たし算をすべき量に関する定理であって,そのからくりには立ち入っていない.これと同じように,力学におけるこの大法則は,定量的な数学的の法則であって,そのからくりはわからない.このように,そのからくりを知らないでも,数学を使って自然を記述することができるというのは,何故なのだろうか? これは誰も知らない.しかしこのようにしていろいろのことがわかってくるのだから,それをつづけていくより他はない.」(同書103p「第7章 万有引力の理論」「7-7 引力とは何か?」 より)

 「もう一つ述べておかなければならないのは,ニュートンの引力の法則がアインシュタインによって修正されたということである.ニュートンの引力の法則は,実に目をみはらせるようなものであったが,それにもかかわらずそれは正しくなかったのである! そしてそれは相対性理論をとり入れてアインシュタインによって修正された.ニュートンによると,引力の影響は瞬間的に生ずる.すなわち,一つの物体を動かすと,それが新しい位置に来るので,直ちにその新しい力を感ずるということになる.このような方法によれば,無限大の速さで信号を送ることができる.しかしアインシュタインの理論によると,光よりも速く信号を送ることはできないということになるので,引力の法則は正しくないにちがいないということになる.この信号のおくれを考えに入れて修正すると,アインシュタインの新しい引力の法則になる.この新しい法則でわかりやすい面はこういうことである:アインシュタインの相対性理論によると,エネルギーをもっているものはすべて質量――引力をうけるという意味における質量――をもっている.光でさえも,エネルギーをもっているので,”質量”をもっている.一つの光線もその中にエネルギーをもっているわけだが,それが太陽のそばを通ると,そこには太陽の引力がはたらいている.だから,光はまっすぐに進まないで,その方向が曲がる.例えば日食のとき,太陽のまわりに見える星は,太陽がそこになかったとした場合に見えるはずの場所から少しずれて見えるはずである.そして観測もまさにそのとおりであった.」(同書106p「第7章 万有引力の理論」「7-8 引力と相対性理論」 より)

 「問題は,ある瞬間にこのスピードで走っていたというのは,何のことかということなのである.これの意味は,彼女が時間的にもうちょっと走ったら,その間に走る距離は,1時間に60マイルの一定のスピードで走る車の距離と同じであるということである.1秒88フィートという考えは正しい.最後の1秒間に走った距離を88フィートでわってその答えが1になるならば,スピードは1時間に60マイルである.すわなち,スピードはこうやればわかるのである:ある非常に短い時間内にどれだけ進むかを求める.その距離を時間でわる.その答がスピードになる.しかし,この時間というのはできるだけ短くなくてはいけないのであって,短ければ短いほどよい.それは,この時間を短くしないと,その間にも何か変化が起こりうるからである.落体で時間を1時間にとったら,話にならない.車の場合には時間を1秒にとればかなりいいだろう.スピードにあまり変化がないからである.しかし落体の場合にはよくない;だから,スピードを正確に求めようとすればするほど,時間としていっそう短いものをとらなくてはならない.我々がなすべきことは1秒の100万分の1をとって,その間に進む距離をこの100万分の1秒でわるということである.その答が秒速になるのであって,これが我々が速度というものである.速度はこうして定義するのである.さっきの女の人に対して,これがいい返答になるというよりは,これがこれから使う定義なのである.
 上の定義の中には,一般的の形でギリシャ人にはなかった新しい考えが入っている.それは微小な距離とそれに対応する微小な時間を考えてその比をつくり,時間を短く短く短くしたら,この比がどうなるかをみるということである.いいかえれば,進んだ距離をそれに要した時間で割って,時間が無限に短く短くなったときの極限を求めるのである.この考えは,ニュートンとライプニッツとによって独立に出されたものであって,微分学という数学の新分野のはじまりである.微分学は運動を記述するために発明されたものであって,その第一の応用は,”時速60マイル”で走るというのはどういう意味かということを定義する問題であった.」(同書113p「第8章 運動」「8‐2 スピード」 より)

 「力学の法則,すなわち運動の法則の発見は,科学の歴史上において,劇的な事件であった.ニュートン以前には,惑星のようなものの運動は一つの神秘であった.しかしニュートン以後,この運動は完全に理解されるようになった.他の惑星の影響によって,ケプラーの法則から僅かなずれが生ずるが,それさえも,計算することができるようになった.ニュートンの法則が打ち立てられてから後は,振子の運動,バネとおもりから成る振動子の運動等々も,完全に解明することができるようになったのである.
 (中略)
 ガリレオが慣性の原理を発見したことは,運動を理解する上の一大進歩であった.一つの物体が孤立していて外から擾乱を受けていなければ,はじめ動いていたものは直線に沿って一定の速度で動いつづけ,はじめ止まっていたものは止まりつづけるというのがこの原理である.もちろんこれは現実には決して起こりそうにない.例えば積木を机の上ですべらせれば,それはもちろん止まってしまう.しかしこれは積木が外界から孤立していないで,机をこすっているからである.現実を超越して正しい法則を発見するには,やはり想像が必要なのであって,この想像がガリレオによって与えられたというわけであった.」(同書122p「第9章 ニュートンの力学法則」「9‐1 運動量と力」 より)

 「ニュートンが前提としたことの一つは,遠隔作用は,瞬間的にその影響が及ぶということであった.しかし実際はそうでないことがわかってきた;例えば電気の力が関係している場合で,1カ所にある電荷が突然運動したとすると,他の点にある他の電荷に及ぼす影響は,瞬間的にはあらわれない――少しおくれがある.このような場合に,力は等しくても,運動量はキチンとあわない,短時間の間めんどうなことが起こる.それは,ちょっとの間,第1の電荷はある反作用的の力を感じ,若干の運動量を得るが,第2の電荷はまだ何も感じないで,運動量もまだ変化していないからである.二つの電荷の間の距離をこの影響が伝わってくるのには時間がかかるのであって,その速さは一秒に186,000マイルである.この短時間の間には,粒子の運動量は保存しない.第2の電荷が第1の電荷の影響を感じて,すべてのことが落付いた後には,運動量は保存しない.このことを我々は次のようにいいあらわす.すなわち,この短い時間の間,粒子の運動量mvの他に,別の運動量があって,それは電磁場内における運動量だとするのである.この場の運動量と粒子の運動量とを加えるならば,いかなる時いかなる瞬間にも,運動量は存在する.運動量やエネルギーをもつことができるということは,この電磁場をはなはだ現実的なものにする.そして理解をよくするために,粒子の間にただ力があるという古い考えを修正して,粒子が場をつくり,場が他の粒子に作用し,そして場それ自身が,粒子と同じように,エネルギーや運動量というようなおなじみの性質をもつとするのである.もう一つ例をとろう:電磁場には波があり,これを我々は光と称する;光もまた運動量をもつことになるので,光が物体にあたるときには,毎秒ある量の運動量を与える;これは力と同じことである.何故ならば,光があたって,物体が毎秒ある量の運動量を受け取るならば,その運動量は変化し,そしてその状況はそれに力がはたらいているのと全く同一であるからである.光もものにあたって圧力を生じうる;この圧力は非常に小さいけれども,充分敏感な装置を使えば,それを測ることができる.
 さて,量子力学によると,運動量は上に考えたものとは,ちがったものであるということになる――それはもはやmvではない.一つの粒子の速度というものが何を意味するのかをはっきり定義することは困難である.しかしそれでも運動量は存在するのである.量子力学ではどこにちがいがあるかというと,粒子を粒子と考えれば,運動量はやはりmvであるが,粒子を波動と考えれば,運動量は1cmあたりの波数によって測られるというところにある;この波数が大きければ大きいほど,運動量は大きいのである.このようなちがいがあるにかかわらず,運動量保存の法則は量子力学でも成立する.量子力学ではf=maの法則は成り立たず,ニュートンが運動量保存について導き出したことは全部正しくないのだが,それでも,この保存の法則はそのままいきているのである!」(同書147p「第10章 運動量の保存」「10‐5 相対論的運動量」 より)

 「この体系は数学とはたいへんに違うのであって,数学ではあらゆることを定義することができ,我々が現実に何のことを問題にしているか知らないのである.じっさい数学の栄光は,我々が現実に何を問題としているかということにふれる必要がないというところにある.その栄光は,法則も議論も論理も,“それ”が何であるかということに無関係だというところにある.ここにもう一つ物体の系があって,それがユークリッド幾何学の公理と同じ体系に従うとし,我々が新しい定義を下して正しい論理で議論を展開するならば,結果はすべて正しいだろうし,そしてまたそのものが何であるかによらない.しかし自然界では,我々が線をひき,あるいは測量でやるように光線と経緯儀とを使って直線を設けたとき,我々はユークリッドの意味において線を測っているのだろうか? そうではない,我々は近似をやっているのである;望遠鏡の中の十文字の線にはいくらかの幅があるが,幾何学的の線には幅はない,だからユークリッド幾何学が測量に応用できるかどうかというのは物理の問題であって,数学の問題ではない.しかし,数学の立場ではなく物理の立場からいうならば,我々が土地を測量するときに使っているような幾何学に,ユークリッドの法則があてはまるかどうかを知る必要がある;そこで我々はあてはまると仮定する,そしてそれはなかなかうまくいくのである;しかし厳密にそうではない,というのは,測量の線は幾何学的の線ではないからである.ユークリッドの線というのは実に抽象的なものだが,これが現実の線にあてはまるかどうかということは,現実の問題である;頭の中の理屈だけで答えられる問題ではない.
 これと同じように,F=maを単に定義であるとし,あらゆることをこれから数学だけで演繹し,また自然を記述する力学を数学的理論とすることはできない.ユークリッドがやったように適当な仮定をおくことによって,ある一つの数学的体系をつくることは常に可能である.しかし我々は自然界の数学をつくることはできない.何故ならば,我々はおそかれ早かれそれらの公理が自然界のものにあてはまるかどうかを知らなければならないからである.こうして我々は,これら自然の複雑な”どろくさい“対象にやがてまきこまれるのである.しかしその近似はだんだん精確に精確にとなっていくのである.」(同書165p「第12章 力の性質」「12‐1 力とは何か?」 より)

 「厖大な量の事実とか考えとかいうものは,互いにある種の関係で結ばれており,またそういう関係が存在するということは”証明“し,”説明”することができるのであるが,数学を要するような専門的な問題を論ずるときには,これらの事実や考えをこうしてよく理解し,記憶に蓄積しておかなければならない.証明というものと,証明によって確立される関係というものとは,とかく混合されがちである.いうまでもなく,学んで頭に入れるのが大切なのは,この関係なのであって,その証明法ではない.場合によっては,これこれが正しいということは”証明できる“というだけのこともあり,また実際に証明することもある.たいていの場合,その証明はうまく考えてあって,何よりもまず,黒板や紙の上にはやく書きやすいように工夫してあり,できるだけすらりとみえるようになっている.そのため,証明は簡単にみえるのだが,実はどうしてそんなものではない.実際,一つのことを計算するのに,教師や著者は何時間もかけていろいろの方法を試みてみる.そして一番速くすむ方法をみつけて,これが最短時間でできる証明であることを証明するのである! 証明をみたときに忘れてはならないことは,証明それ自身ではなく,これこれのことが正しいということを証明することができるということである.証明が数学的の手段や”技巧“を含んでいて,それが初めてお目にかかるようなものであっても,その”技巧“そのものを重視してはいけない.そこに出て来る数学的の考えをこそ重視すべきであるのはいうまでもない.
 この講義のようなものの中に出てくるいろいろな説明には,教師が自分が1年生の物理を習ったとき以来,ずっと覚えていたなどというものは,一つもありはしない.とてもそんなことはない:教師が覚えているのは,これこれのことが正しいということだけなのであって,どうやって証明するかは,そのときどきの必要に応じてそのつど工夫するのである.一つの問題が充分によくわかっている人なら,誰でもこのようにやれるのである.証明を覚えるということは無益である.」(同書193‐194p「第14章 仕事と位置のエネルギー(結び)」「14‐1 仕事」 より)

 「運動の全エネルギーと位置の全エネルギーを加えたものは,時間によって変化しない.いろいろの惑星が,自転したり,公転したり,ねじれたりしていても,運動の全エネルギーと位置の全エネルギーを計算すると,その和はいつも一定である.」(同書201p「第14章 仕事と位置のエネルギー(結び)」「14‐3 保存力」 より)

 「200年以上もの間,ニュートンの運動方程式は,自然を正しく記述するものであると信じられてきた.これらの法則にあやまりがあるということが初めて発見されたとき,同時に,それを修正する方法も発見されたのである.このあやまりを発見したのも,修正を加えたのも,アインシュタインであって,1905年のことである.」(同書207p「第15章 特殊相対性理論」「15‐1 相対性原理」 より)

 「この方程式を使えば,例えば原子爆弾内の核分裂で放出されるエネルギーはいくらかということを見積もることができる.(分裂でできる片々は厳密に等しくはないが,だいたい等しい.)ウラン原子の質量は既知である――ずっと以前に測定されていた.これが分裂してヨウ素,キセノン等になるのだが,その質量もみんな既知である.ここでいう質量とは,原子が運動しているときの質量ではなく,静止しているときの質量である.(中略)アインシュタイン老が,気の毒にも新聞などで原子爆弾の“父”といわれるようになったのはこのためである.その意味するところは,どういうものがどう分裂するかということを知りさえすれば,アインシュタインの式に従って,出てくるエネルギーの量をあらかじめ計算することができるというだけのことなのである.ウランの原子一つが分裂するときに出るはずのエネルギーが見積もられたのは,最初の核爆発実験テストが行われたのよりも6カ月ほど前のことであった.そして,テストがエネルギーが放出されるや否や,そのエネルギーが直接に測定された.(もしもアインシュタインの式があてはまらなかったとしても,ともかく測定は行われたことだろう.)そして測定が行なわれたその瞬間から,式はもういらなくなってしまった.我々はもちろんアインシュタインを軽くみてはいけない.我々はむしろ,新聞だとか,科学技術史上で何が何の原因になったかということを解説する通俗書だとかいうものを批判すべきなのであろう.物事を効果的に速く実行するのにはどうすればよいかというようなことは全く別問題である.」(同書234‐235p「第16章 相対論的エネルギー」「16‐5 相対論的エネルギー」 より)

 「“ただいま”ということの意味は,神秘的であって,定義をすることができない.我々は“ただいま”に影響を与えることはできないが,“ただいま”は後にやがて我々に影響を与えうる.あるいは,ずっと前に何かをしておいたら我々も”ただいま“に影響を与えることもできた.我々がαケンタウルス星を眺めるとき,我々がみているのは,それの4年前の姿である;その星は”ただいま“どうなのだろうか.”ただいま”というのは,我々に固有の座標系からみて“同時に”という意味である.我々がαケンタウルス星をみることができるのは,4年前という我々の過去から来た光によるのであって,その星が“ただいま”どうなっているかはわからない;この星の“ただいま”の様子が我々に影響を与えるのは4年先のことである.“ただいま”のαケンタウルスというのは,我々の頭の中の考えであり観念であって,現在,物理的にきちんと規定できるものではない.我々はまだそれを観測することはできない;“ただいま”すぐ規定することもできない.さらに,この“ただいま”というのは,座標系にも関係する.たとえば,αケンタウルス星が運動しているとすると,この星にいる観測者は,我々のいうことに合意しないだろう.何故ならば,その観測者は,我々の座標軸に対して斜めの座標軸を使い,彼の“ただいま”は我々の“ただいま”とはちがうのである.同時ということがきちんと一つにきまるものではないことは,すでに述べた.
 世に占師,すなわち未来を知っていると称する人がいる.また,未来圏について知識をもっていることに突如として気がついたなどという人について,さまざまの不思議な話がある.こういう話自体には,またたくさんのパラドックスが含まれている.もしも将来何かが起こるということがわかっているのなら,適当なときに適当なことをすれば,それは確かに避けられるではないか,等々.しかし実際のところ,現在のことをさえ知らせてくれる占師はない! かなり離れたところでいま何が起こっているかは,観測できないのだから,わかるはずはない.」(同書242p「第17章 時空の世界」「17‐3 過去,現在,未来」 より)

 「人間がまず発見するいくつかの法則というものは,大きいスケールに対してもそのまま成立するようなものであろうと思われる.それは何故か? 宇宙の基本的のからくりのスケールは実は原子的な大きさであって,我々が観測するものにくらべてはるかに微細であり,ふつうの観測にはこんなスケールのものはどこにもないからである.だから我々がまず最初に発見するであろうものは,原子的スケールとくらべて,特にどの大きさと限定しないものに対して成り立つ法則が,大きなスケールに対してそのまま成立しないというのだったら,これらの法則を発見するのは容易なことではなかろう.では逆の問題はどうだろうか? 小さなスケールに対する法則は,大きいスケールに対する法則と同じものでなければならないだろうか? もちろん自然界では,原子的レベルにおける法則が,大きいスケールの法則と同じでなければならないということはない.いま,原子の運動の法則がほんとは奇妙な方程式によって与えられ,そしてそれは大きいスケールにもっていったときにそのまま同じ形にはならないが,ある近似式によってあらわされ,この近似式をどんどん先に進めると,さらに大きいスケールに対してもそのまま成立しつづけるという性質をもっているとしよう.こういうことはありうることであり,また実際もそのとおりになっている.ニュートンの法則は,原子に対する法則を非常に大きいスケールにもっていった”しっぽの先“なのである.微小スケールにおける粒子の運動の実際の法則は,非常に奇妙なものである.しかし,それをたくさんとっていっしょにすると,それはニュートンの法則に近似する――近似するだけのことである.ニュートンの法則は大きいスケールにどんどんおしひろめていいのであって,そうやってもやはり同じ法則であるようにみえる.このニュートンの法則が大きいスケールでもそのまま成立するという性質は,実は自然の基本的性質というわけではなく,重要な歴史的事実である.最初の観測というのはあらっぽいのだから,それによって原子的粒子の基本的法則が発見されるなどということは決してありえない.じっさい,量子力学と称する原子的基本法則は,ニュートンの法則とは全くちがうのである.我々が直接に経験するものはみなずっと大きなスケールの問題であるが,小さなスケールの原子は,大きいスケールではみたこともないような行動をとるので,これはなかなか理解しにくい.だから”原子は太陽のまわりをまわっている惑星に似ている”などというわけにはいかない.それに似たものはないのだから,それは我々におなじみのものとどれにも似ていない.量子力学をだんだん大きいものにあてはめていくと,たくさんの原子が集まっているものの行動については法則がそのまま同じ形で成立するのではなくて,新しい形の法則になる.これがニュートンの法則であって,こんどはそれは,マイクロマイクログラム,――といっても,そこには何十億の原子があるのだが――そのマイクロマイクログラムの大きさから,ずっと地球の大きさ,またはそれ以上のものに対しても,そのままの形で成立するのである.」(同書262‐263p「第19章 質量の中心;慣性モーメント」「19‐1 質量の中心の性質」 より)

 「ここでもう我々は,ジャイロスコープの歳差運動のことはよくわかったといってもよいかもしれない.また数学的には事実そうである.しかし,これはあくまでも数学的な話であって,現象としてはある意味では”奇跡“的なものである.今後,物理学のもっと程度の高いところに入っていくと,大したことにはみえないようなことでも,それを基本的な,あるいは明解な意味で本当に理解することの方がたいへんで,数学的にはかえって早く出てくるものがたくさんあるということになる.これは奇妙な特質であって,もっともっと進んだ部分にはいっていくと,端的には誰も本当には理解できないような結果が,数学からは導き出されるというような場合があるのである.ディラックの方程式がその一例である.この方程式は一見したところ非常に簡単で,きれいな形なのであるが,それから得られる結果を理解するのは難しい.我々のいまの問題に限っていうならば,コマの歳差運動は直角とか円とか,ねじれとか右手ネジとかいうものを含んでいるある種の軌跡の一つであるようにみえる.我々は,それをもっと物理的な意味で理解しなければならない.」(同書281p「第20章 3次元空間における回転」「20‐3 ジャイロスコープ」 より)

 「物理の課程は通常,力学,電気学,光学などの部門に分かれていて,学生はそれを次々に勉強するようになっている.例えばこの講義では,いままで主として力学を取り扱ってきた.しかし不思議なことがたびたび起こる:すなわち物理学のいろいろな分野ばかりでなく,他の科学においてもほとんど全く同じ方程式が出てくることがしばしばあるのである.ということは,これらは分野こそ違っているが,類似性のある現象がたくさんあるということである.いちばん簡単な例をあげるならば,音波の伝播は光波の伝播に似ている点が多い.音響学をよく勉強すれば,その多くは光学をよく勉強するときのと同じものであることがわかるだろう.このようなわけで,一つの分野のある現象に関して勉強するということは,別の分野における我々の知識を拡張するのに役立つことがある.このような拡張が可能であるということは,あらかじめ知っていた方がよいと思う.そうでないと,力学のごく小部分としか思えないようなところに何故こんなに時間とエネルギーをつぎ込むのか,その理由がのみこめないかも知れないからである.
 これから調和振動子について勉強するのだが,これは他の多くの分野にも,ぴったりこれに相当するものがある.ここではバネの端につけたおもり,あるいは振れの小さい振子,その他何か機械的なものというような力学的な例から始めるが,本当のところはある微分方程式について勉強するわけである.この方程式は,物理学やその他の科学にしばしばあらわれてくるものである.そして事実,非常に多くの現象の一部をなしているので,それについてよく勉強しておく価値が十分ある.この方程式に出てくる現象としては,例えばバネに取り付けられたおもりの振動;電気回路の中で前後に流れている電荷の振動;音を発生している音叉の振動;光波を発生している原子中の電子の振動;温度調節のサーモスタットのような自動調節機構の作動;化学反応における複雑な相互作用;食物の供給とバクテリアのコロニーの成長;狐が兎を食い,兎が草を食うというような現象;等々があるが,これらの現象が従う方程式はすべて互いに非常によく似ている.我々が利力学的な振動子をこんなに深く勉強するのはこのためである.この方程式を定数係数を持った線型微分方程式という.」(同書285p「第21章 調和振動子」「21‐1 調和振動子」 より)


5年かけて『ファインマン物理学』を読む:1年目「Ⅰ力学」 ブックガイド

凡例 『書名』・著者編者訳者などの名前・(出版社名 初版刊行年)・[コメント]
[随時、追加・追記・修整します]

【本文中に登場する本】

『ファインマン物理学Ⅰ力学』(岩波書店)
ヒッポファミリークラブ『フーリエの冒険』
『ファインマン物理学Ⅱ光 熱 波動』
『自分のなかに歴史をよむ』
『阿部謹也著作集 9 自分のなかに歴史をよむ 北の街にて』
『クォーク 素粒子物理はどこまで進んできたか 第2版』

タルバガン(等々力政彦・嵯峨治彦)
『タルバガン、大地に立つ』(BOOXBOX 1998)
『マイタイガ』(BOOXBOX 1999)
『野遠見』(BOOXBOX 2005)

【参考図書・関連本・田原のお薦め などなど】

『ファインマンさん最後の冒険』ラルフ・レイトン 大貫昌子訳(岩波書店 1991)

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羊 狼 通 信 ブックレビュー&ガイド 2017年01月 005/120

すべてのクレイジートラベラーの道はトゥバに通ず All roads for crazy travellers lead to Tuva.



すべてのクレイジートラベラーの道はトゥバに通ず All roads for crazy travellers lead to Tuva.
 等々力政彦(とどりき・まさひこ 1965‐ )は1992年の夏、南シベリアに位置するトゥバ自治共和国を初めて訪れた。そこはよほど魅力的な場所なのだろう、それ以降2013年まで、等々力はトゥバの地にほぼ毎年足繁く通うようになる。その20年ほどの間に現地の音楽家たちと交流し、歴史文化を調査研究し続けた等々力は現在、トゥバ民族音楽演奏家として活躍している。
 等々力政彦と私は四半世紀来の友人同士である。おかげでこうして、私は現地入りすることもないままに、人づてにトゥバについて書くことになった。「人づてに頼む人」として、等々力以上の適格者もいないだろうが。

 トゥバとは、一国の国名であり、その国土を中心にロシア・モンゴル・中国の国境を越えてその周辺に生活する少数民族の名称でもある。南シベリアの遊牧・狩猟文化をいまだに色濃く残し、厳しくも豊かな自然環境下にトゥバ民族約25万人が生きている。
 とはいえトゥバ人の生活が、素朴で平穏なものだったとはいい切れない。それとは逆に、過酷な政治状況をくぐり抜け、なんとか民族としての命脈を保ってきたといっていいだろう。古くから周辺諸民族との絶え間ない抗争にさらされ、さらに十七世紀からは二つの強国ロシア・清に挟まれ、長く少数民族として係争地に生きることを余儀なくされた。
 トゥバは、1921年から1944年まで、独立国として存在した。その国名を日本語で表記するなら、およそ「タンヌ・トゥバ人民共和国」のちに「トゥバ人民共和国」となるらしい。独立以前は清朝・満州族の支配下にあるモンゴルの支配下にある一地方として二重支配を受け、独立したと言ってもそれはロシア・ソ連邦の政治的意図によるもので実質的にはその支配下にあり、やがて1944年ロシア共和国の一自治州としてソ連邦のもとに併合された。独立国としての「トゥバ」は名目上のもので、かつ短命に終わったわけである。
 その一方で、もともと芸能を愛しその技芸に優れた民族性が、過酷な環境下にあっても、独自の芸術を創造させることになった。「喉歌」がその一例で、地域限定の独特な技芸が、人類に共通するセンチメントに出会い、普遍性の高い芸術に昇華した。トゥバの地は世界有数の民族音楽のホットスポットとなり、トゥバ音楽愛好家を世界中に数多く生むことになった。

 21世紀の今から振り返れば、20世紀の一世紀をかけて、トゥバは地理的・政治的秘境から、徐々に世界に開かれていくことになったと言えるだろう。そして、その開かれていく過程の最後の十年のトゥバを、等々力は目の当たりにしてきたことになる。
 『シベリアをわたる風 トゥバ共和国、喉歌(フーメイ)の世界へ』(長征社 1999)は、その等々力の紙媒体著作品のデビュー作である。
 その文中に、等々力が、トゥバの存在を通して相知ることになった米国人ラルフ・レイトンを、ロス・アンジェルスに訪ねる場面がある。ラルフは、等々力より一足早く、1988年にトゥバ渡航を果たしている。
 彼らは初対面の機会を、1996年一月末に持った。ロスからトゥバ民族音楽家のコンサートが行われるドイツへ単身向かおうとしている等々力を、
「いちいちラルフは私のドイツ旅行のことに言及して、誰彼なく「クレイジー・トラベラー」として私を紹介するのである。」(『シベリアをわたる風』)
 トゥバの地にはどうやら、いつの世のどんな社会にも一定数存在する、クレイジートラベラーを惹きつけて止まない魅力があるらしい。今回のこのレビューでは、まずはそんなクレイジートラベラーの何名かを紹介し、その足跡を辿る形で机上のトゥバへの旅を楽しんでみたい。21世紀に入りその地がもはや前世紀にそうであったような秘境ではなくなったとはいえ、気軽に旅先として選べる土地でもないだろう。

クレイジートラベラー列伝
 第一号のクレイジートラベラーはイギリス人で、彼がトゥバの地に「アジア中心の碑」をたてたところから話は始まる。
ジュール・ヴェルヌが好んで主人公にとりあげそうな、一人の奇矯なイギリス人が、すべての大陸の中心点に記念碑を立てたいというたった一つの目的のために、世界中を旅してまわった。「この大陸の中心点であるここに、この日私は立った」――何年何月何日と刻んで。かれがこのアジアの心臓に記念碑を立てるために出発したのは、アフリカと南北アメリカにはすでに石碑を立てたあとだった。かれの計算に従って、イェニセイ河上流の岸辺に位置するシナのウリヤンハイ地方に石が立てられた。金持ちでスポーツマンのこの男は、多くの痴れ者がそうであるようにしつっこく、いかなる困難にもめげずに目的地に到達したのである。  私は一九二年の夏、その石碑に対面した。石はかつてのウリヤンハイ、今はトゥバと呼ばれている国のサルダムに立っている。シベリアとアルタイ山脈とゴビ砂漠に囲まれて、ヨーロッパ人には閉ざされた、アジアのこの遊牧民国家の中に。」
 『トゥバ紀行』メンヒェン=ヘルフェン著・田中克彦訳(岩波文庫 1996)の冒頭部分である。文中の「私」は当然、著者のドイツ人オットー・メンヒェン=ヘルフェン(Otto Manchen-Helfen 1894 -1969)で、われわれは彼をしてトゥバの地を目指すクレイジートラベラーの第二号と認定してよいだろう。1929年の夏、一号・二号の、碑を介しての、間接的な邂逅である。

 この「アジア中心の碑」の現在・現状について、2017年1月、等々力氏に尋ねたところ、次のようなメッセージが返ってきた。
「「アジア中心の碑」は、おそらく1890年代に東北部のトジュ地域に木製のものがあったのが一番古いものであると考えています。その後、1929年にメンヒェン=ヘルフェンが、その「石碑」と対面したことが書かれていますが、これがどこにあってどのようなものであったのかはっきりしません。彼の遺品は、カリフォルニア大学バークレー校に保存されているのですが、調べたところではあまりめぼしい参考資料がないようなのです。1950年あたりには、コンクリート製のものになっているのが、残された写真からわかります。場所は、現在のアジア中心の碑の位置 (LINK!)よりも、若干下流側 (LINK!)でした。現在のアジア中心の碑は、1964年に建てられた碑を破壊して2014年に再建されたものですが、何かつまらないものです:
 https://www.youtube.com/watch?v=QnRl3G3GXK8。 」
 クレイジートラベラー第二号のメンヒェン=ヘルフェンは、独立国時代のトゥバに潜入した。
 文中に「私がロシア人以外ではじめてトゥバに足を踏み入れた人間である」と宣言した1929年の旅の記録は、『REISE INS ASIATISCHE TUWA』としてまとめられ、1931年に世に出た。その日本語訳が、岩波文庫『トゥバ紀行』である。それは発刊当時、書き手にも内情をばらされることになったソ連当局にも、それぞれに切迫した内容を持つ出版物であったらしい。
 訳者田中克彦の解説によれば、
「一九八七年当時、まだ存命であったメンヒェン=ヘルフェン夫人は、英訳本に寄せた序文で、もしも夫が生きていたら、本人はこの本の再刊を望んだかどうかわかりません」、「夫は徹夜でタイプを打ち、次の朝、できあがったぶんだけ、いらいらしながら待っている編集者に渡すのが私の仕事でした――それほど大急ぎで書かれ、推敲する余裕などありませんでした」と回想している。
 著者が夜を日についで、大急ぎで本書を書き上げた背景には、一日も早く、トゥバの実態を世界に伝えねばという切迫した気持ちがあったにちがいない。そして、そのことはたしかに絶大な効果があったのだ。ソ連の当局者は、とんでもないやつをトゥバに入れてしまったと、後悔のほぞを噛んだにちがいない。本書を見たモスクワの新聞は、著者のことを「第二インターナショナル右派」、「社会民主党の反ソ活動家」、「カウツキ―やヒルファーディングの手先」などと、口汚くののしったのである。しかし、あとのまつりとはこのことだ。うっかりこの「匈奴史家」、「シナ美術史家」をトゥバに入れてしまったために、トゥバの実状が世界にもれてしまった。そしてそのおかげで、こうしてトゥバについてのかけがえのない証言が残ることになったのである。」
 メンヒェン=ヘルフェンの観察眼は優れたものだ。私は、等々力から得たトゥバに関する情報のいくつかを、その半世紀以上前に書かれた『トゥバ紀行』の中で追体験することになった。 たとえば、羊の屠り方。
 「トゥバ人が牛を殺すのは、真にやむを得ないときだけである。通常の肉料理は羊肉である。かれらがヒツジを屠る特別の方法は、たいへん古い時代から伝わったものである。私がヒツジを屠ってもらおうとしたとき、それを見ようなどという考えは起こらなかった。トゥバ人がロシア人入植者とは別の屠り方をするなどとは思ってもみなかったからである。あるとき、ヒツジはロシア式にやった方がいいのか、それともトゥバ式にやってほしいのかと聞かれたので、はじめてトゥバ特有の屠り方があることがわかったのである。
 一人の男がヒツジを仰向けにして、腹の上にまたがり、その両前脚を左手でしっかりとおさえる。それから胸骨が終わるあたりのところで、皮を手の幅くらいの長さに注意深く切り開く。そのとき、一滴たりとも血を流してはならない。それからすばやく右手をその切り口から体内に入れて、力いっぱい大動脈をしめつける。ヒツジは一、二度ぴくぴくっと動くと、もう死んでいる。私たちが普通やるような屠り方よりはたしかにずっと速い。それからヒツジはすっか切り開かれて――その間じゅうずっと仰向けにしておかなければならない――肝臓、肺、脾臓、腎臓を取り除いてから、湯を煮建てた鍋の中に投げ込む。血は特別の容器に汲み取られ、前もって女たちがきれいに洗っておいた胃と腸の中に詰める。そこではじめて皮を剥ぎ取る。屠るときにも内臓を取り出すときにも、また解体するときにも、血を流さぬよう、とくに、一滴たりとも大地を汚さぬよう注意深くやらなければならない。
 この習慣は、昔は北、内陸アジア全体にひろまっていた。チンギス・ハーンの法律がそう定めていたのである。マホメット教徒が屠るようなやり方をする者は、自分自身がそのように殺されるであろうと。まだ何十年もたたない以前、ヤクート人、ミヌシンスク・タタール人、それにブリヤート人で、古いシャマニズムを守っていた人たちは、少なくとも生けにえ獣はこのようにして屠っていた。日常生活では、諸民族はすでに「普通の」屠り方に移っていた。一方でロシア文化の、他方では仏教の影響がこの古いしきたりを絶滅させた。それは多くの原始のことどもと同様、トゥバと西部モンゴルの一帯だけで維持されている。」
 等々力の記述。
「ここで肉にまつわる話をしておく。ヤギや羊の肉は基本的に食べる人々で殺すのである。殺し方は非常にエレガントだ。まず鳩尾(みぞおち)のところをナイフで十センチくらい切り、そこから手をつっこんで、心臓や頸動脈をつぶして血流を止める。あるいは脊椎を外す、そうすると五分以内に、速やかに殺すことができる。その後、血は腸に詰めてソーセージにし、切り分けた肉や内臓と一緒に塩茹でにするのである。無駄がほとんどない。この殺し方はチンギス・ハーンの「大地に血を落としてはならない」という掟をそのままに伝えているものであり、現在では他にはモンゴルなどでしか見られなくなっている方法である。」(『シベリアをわたる風』)
 『トゥワー民族』鴨川和子(晩聲社 1990)でも同様の羊の屠り方が登場する。鴨川は、その著書の「まえがき」で「一九八四年には夏と冬の二度にわたってトゥワー自治共和国へフィールドワークへ行くこともできた。トゥワーが革命後外国人を地方にまで受け入れたのは、これが初めてである。」と語っているように、ペレストロイカ以前にトゥバの地方まで足を伸ばすことができた数少ない外国人の一人だ。
「真っ黒に日焼けしたユルタの主人スイラトさん(三〇歳)が、ヒツジの群れの中から一匹肥えた雌ヒツジを掴み出してくると、そばにいた牧民たちが「うん、それならいいだろう」と賛同の合図をした。捕えられたヒツジは激しく抵抗するが、スイラトさんに後右足をガッチリ握られて身動きできず、用意された敷物の上に仰向けに寝かされてしまった。若い牧民が手助けのためヒツジの頭の方に座り、前肢を右手で押え、左手を首に回し口を塞ぐ。スイラトさんはヒツジに股がり、足でヒツジを押え、腰に下げていたナイフで胃の辺りに一〇センチほどメスを入れた。そのとき、ヒツジの悲鳴があがった。スイラトさんはその切り口から、静かに右手を奥深く入れていく。心臓から出ている大動脈を指で探っていき、彼が「これだナ」と指に力を入れたその瞬間、フンがポロポロと落ちた。ヒツジは弱々しい最期の声をあげて息絶えた。」
 死生観についての比較もできる。
 メンヒェン=ヘルフェン。
「死後三日目、七日目、四〇日目に、身内の者が集まって食事をすれば、行事のすべては終わる。死者はずっと忘れられないようである――先立った妻におくれて生き残りたくないために自殺したという男がいたという話を二度聞いた――が、しかし死者の名はもう口にされない。死者のことは話さない方がいいとされている。その名を口にすることはきわめて危険である。ひょっとして、またもどって来るかもしれないからである。どんな死者にも悪意があり、生きている者が光の中にいることをねたんでいるからである。」(『トゥバ紀行』)
 等々力。
 「最後に死についてである。この話はクズル郊外で、チャダーナ生まれのおばあさんから聞いたものである。
 トゥバでは人が死んだ場合、七日後と四十九日後にシャマンを呼んで供養してもらうという。ロシアでは九日後と四十日後に供養がある。供養はまずシャマンの右側に線を引いて、その外側に親族を置き、シャマンは線の内側で霊と話す。そのとき霊との交信は火を通して行う、交信は長く行うとシャマンの魂が持っていかれてしまうということである。
 また死後には死んだ人の名前をいってはならないということである。生きているものを羨んで、とりつかれるのだという。
 実はこれについては思い当たる。一九九六年の夏に訪れたときのことである。トゥバでは結構頻繁に殺人事件が起こるようなのであるが、この年は私の知人が二人も殺された。一人は路上で刺し殺され、もう一人は夜中にドアを壊されて、寝ているところを射殺されたのである。そのことをいうのに彼らは、早く話題を変えたがっているように見えたのである。今までは、「死に対するトゥバ人の考えは、あっさりとしているのだ、考えてみれば死なんて当たり前のことだから」と納得していた。ところがそれは誤りであったわけである。」(『シベリアをわたる風』)
 第3号・第4号のノーベル賞物理学者ファインマンとその年若き友人ラルフ・レイトンは、1980年代に、トゥバの首都「クズル(キジル)」(Kygyl)への渡航を試みた。
 1988年にラルフはついにトゥバに辿り着くのだが、ファインマンはその1988年の2月15日に亡くなり、結局トゥバの地に立つことはなかった。ラルフ自身がその顛末を書き綴り、『TUVA OR BUST! Richard Feynman’s Last Journey』(1991)として、一冊の本にまとめられた。その邦訳が『ファインマンさん 最後の冒険』大貫昌子訳(岩波書店 1991/岩波現代文庫 2004)だ。その本はまた、1978年に癌の手術を受け、1988年に亡くなるファインマンの十年間の「知的」な闘病生活記でもあり、ファインマンとラルフの稀有な友情物語でもある。
 『ファインマンさん最後の冒険』を読んでいると、改めて1980年代当時の米ソ対立の深刻さを伺い知ることができる。文中には、1980年のジョン・レノンの死、1986年4月のチェルノブイリ事故、同年サハロフ博士の放免、そしてゴルバチョフのジャイアント・ステップと、昭和を生きた人間には懐かしい出来事が並ぶ。世界的な激動の年だった1989年に向かう10年間を追体験できる、一風変わった年代でもあるかもしれない。
 その激動の1989年が過ぎ、ソ連崩壊の翌年1992年に等々力が、1993年には田中克彦先生が、次々とトゥバ行きを果たす。第一号から第三号までの諸氏と比較すれば、渡航はかなり容易になったと言えるのだろう。さらに、21世紀に入ると日本からトゥバへのパッケージツアーまで企画され、多くの日本人がさらに難なくトゥバ行きを果たすことになる。時代は変わる、ということだろうか。

マキシム・「デルス・ウザーラ」・ムンズク讃
 さて、ここまで読んでいただいたとしても、実際見た事も会ったこともないトゥバ人が、どんな人たちなのかイメージするのは難しいだろう。そこで、もっとも人目に触れる機会の多いトゥバ人を紹介したい。
 黒澤明監督『デルス・ウザーラ』の主人公デルスを演じる、マキシム・ムンズクはトゥバ人であり、トゥバの芸能の興隆維持保存に貢献した国家的人物だった。いままでこの文中で紹介したトゥバ関連本のことごとくに登場するのが、このムンズク翁である。

 1993年夏、クズル(=キジル Kygyl)で等々力はムンズク氏の知遇を得る。
「(前略)偶然、路上で俳優のマクシム・ムンズク翁と出会った。彼の名前は黒澤映画を通してではなく、『ファインマンさん最後の冒険』で知っていたのである。我々に対して、日本に行ったときの思い出などを、しきりと話してくれた。ムンズク氏は当時八十二歳であって、一つ年上の黒澤明氏をたいへん慕っていた。(後でわかってきたが、彼は出会った日本人全員に「クロサワサンと再会したい」と話していたようである。よほど会いたかったのであろう)。黒澤氏は、トゥバの一舞台芸人であったムンズク氏を大抜擢して、一九七五年『デルス・ウザーラ』(ソ連映画)という美しい映画を結晶させたのである。私も帰国してから初めてこの映画をビデオで見、原作『デルスウ・ウザーラ 沿海州探検行』(アルセー二エフ著 長谷川四郎訳 東洋文庫)を読んで、その美しさに触れた。この話はウスリー地方の学術探検の話であると同時に、ロシア人の「測量技師」であるアルセー二エフとウスリー地方の少数民族ナナイ人(ゴリド人)の罠猟師デルスウとの、悲しくも心温まる友情の実話である。
 ムンズク氏はクロサワサンと再会したがっていた。その印象が強かったため、帰国後、そのことを書いて黒澤氏に送った。大学の研究室の友人たちには「そんなことを書いても、読んでもらえないよ」といわれた。ところが大方の予想を裏切って、黒澤氏からクリスマスカードがやってきたのである。
 明けた一九九四年八月十三日の夕方、「クズル市誕生八十周年記念コンサート会場」に私はムンズク氏を尋ねた。そしてクリスマスカードのコピーを手渡したところ、たいへん喜んでくれた。この日のコンサートで、彼はカラクス夫人とともにアー・シュー・テケイ・オーというトゥバの掛け合いの歌を、仲良く歌ってくれた。」
 「一九九八年九月六日、黒澤明氏は享年八十八歳をもってこの世を去った。マクシム・ムンズク氏もまた一九九六年四月にカラクス夫人を亡くされてからは、家に閉じこもりがちであると聞いた。そうやって、死を待っているのかもしれない。

ムンズク氏はたいへんにクロサワサンと再会したがっていた。それはまさにデルスウがアルセー二エフを慕っている姿にも見えるのである。」(『シベリアをわたる風』)
『トゥバ紀行』解説。
「トゥバについての研究書はトゥバでもモスクワでもかなり多く出版されて日本にもたらされたが、トゥバが実在のものとして感じられるような機会はなかった。そうしているうちに一つのできごとがあった。一九七五年、黒沢明がソ連に招かれて行って作った『デルス・ウザーラ』が公開された。そこでデルスを演じたのが、ムンズクというトゥバ出身の俳優であり、映画の日本公開に際して、そのムンズク自身が日本にやって来たと新聞が報じた。そのとき、私はムンズクに会いに行くことはしなかったが、一九九四年、クズル市誕生八〇周年の記念祝典に、オールジャック大統領に招かれてトゥバに行った際、ステージの上に立って、元気いっぱいに祝辞を述べるムンズクの姿を見ることができたのである。」
『ファインマンさん 最後の冒険』。
 「そのころ僕の方もまた、いささか見解をひろめる経験をした。日本人の友だちが、黒沢明監督による日ソ共同製作映画『デルス・ウザーラ』に連れていってくれたのだ。今までの黒沢の作品とまったく異なり、この映画は、第一にカラーで撮られ、第二にその背景も日本でなくシベリア東部で、第三に三船敏郎ならぬソ連の俳優が起用されていた。そして一九七五年度最優秀外国映画として、アカデミー賞をもらっている。
 二〇世紀はじめに地図作製のため、ロシアと中国の国境周辺で働いていた測量隊の話である。若く荒っぽいロシア兵たちが、デルスという見るからに小柄な猟師に出会い、その乱暴な行動をたしなめられる。中でも印象に残ったのは、ある夜、凍てついた湖上ですさまじい突風に襲われた測量隊の隊長の命をデルスが救う、手に汗をにぎるシーンだった。
 僕はこうと思ったら最後、まったく頭の融通が利かなくなる人間だ。映画の中では「ゴルディ」族だということになっていたが、デルスはトゥーバ人だとひたすら信じて疑わなかった。」
 「融通の利かぬ頭で僕がかたくなに信じこんでいたことは結局当たっており、デルスを演じたあの俳優は、ほんとうにトゥーバ人だったのだ! この国際的スターにファンレターを、しかもトゥーバ語で書こうと僕は思いついた。例のトゥーバ語―モンゴル語―ロシア語対照熟語集をめくり、単語をついだりはいだりしてできたのは「私は 映画 デルス・ウザーラ カリフォルニア‐の中 見た 私」とか「夏‐の中 トゥーバ‐に 来る‐でしょう私。会う‐互いに 可能か?」などという文である。」
 「キジルに戻った僕たちは、ついにわれわれの聖杯たる「アジア中心碑」の前に立った。しかしそれはまるでリチャードの墓のようにも思われ、僕の胸はつまるばかりだった。
 胸が痛んだのはもう一つ、キジル劇場を訪ねたときである。酋長(=リチャード・ファインマン 筆者注)と僕がいっしょにドラムを打つのを夢見た。あの劇場なのだ。白い大理石のロビーの地下には、まるで酋長のために作られたような面白いものが、でんとすわっていた。銅の器と鎖がゆっくりした一定のパターンで、水をたがいちがいの水路に通すという、一種の水時計である。
 そのロビーの二階で地方の芸能人が、非公式な民族音楽の催しで、僕たちをもてなしてくれた。その中にはシャーマンの踊りに伴うドラムや、数人の歌手による「フーメイ」もあり、中には「デルス・ウザーラ」(マキシム・ムンズク)おん自ら、奥さんとかけあいでトゥーバの民謡を歌うひとこまもあった。その会のあと僕はムンズクと握手を交わし、出演者一同に向かって、ばかの一つ覚え的美辞麗句をトゥーバ語で述べた。「私の心の奥底からご挨拶を送ります。そして仕事のご成功とご健康と幸福とを心からお祈りします!」」
 私も映画『デルス・ウザーラ』は何度か見た。
 特に印象的なシーンの一つに、デルスが、かつて彼の妻子を天然痘で失った場所の近くで、アルセーニエフの一隊とともに、野営する場面がある。デルスは、夜遅く、焚き火に当たりながら、慰霊のためなのだろう木の枝をナイフで削り(アイヌ民族のイナウの造形を想像させる)、一人静かに鎮魂歌を歌う。アルセー二エフは一人その姿と歌声に気づき、デルスの話を聞き彼を慰めながらその人間性の深さに感銘を受ける。デルスになり切ったかのようなムンズク氏の、素晴らしい歌と歌声を聴くことができる。この映画だけは、主役が三船敏郎でなくてよかったと思わせるシーンである。

 『トゥワー民族』の、著者鴨川氏によるマキシム・ムンズクへのインタビュー。
「ムンズーク 最初、黒沢さんはデルス役を三船敏郎さんにやらせようと考えていらっしゃった。かれは美しい、私とは違う。(中略)
 私は小さいときからタイガで育った。ユルタもなく、あの厳しい寒さのシベリアでですよ。住む家がなかったんです。その点ではデルスの境遇とたいへん似ている。あの体験が大きな助けとなったですよ。(中略)
 一九七四年の一月二日に、忘れもしませんよ。黒沢さんとモスクワで会った。(中略)黒沢さんは私の周りを回ってジロジロ見るだけ。「インテリの手ではない、狩人の手だ」とその一言だけ(笑)。」

別種のクレイジートラベラーの(トゥバの地には導かれない)道程
 『シベリアをわたる風』には私(田原洋朗)も登場する。
 「タルバガン、巣穴を出る
 こうして練習してきた歌であるが、一九九七年からはすこしづつ人前で歌う機会を設けてもらえるようになってきた。そんなおり、インターネット上に喉歌のホームページを発見した。そしてそれを主宰している北海道の嵯峨治彦という人が、モンゴルのフーミー(ホーミー)とモリン・ホール(馬頭琴)を実践していることを知り、連絡を取りだした。
 やがて私の友人で北海道出身の田原洋朗さんが、それまで住んでいた大阪から北海道に帰ることになった。最初、私は田原さんを嵯峨君に紹介したのであるが、やがては嵯峨君と田原さんに、逆に私が呼ばれて北海道へ行くことになる。一九九七年の十二月である。そこで嵯峨君と一緒に初めてセッションをしたのであるが、なかなか面白い演奏ができた。
 一九九八年の二月にはもう「タルバガン」というユニット名も決定し、レコーディングを行い、小さいながらも札幌において初のライブを行った。ユニット名は田原さんの命名によるもので、何となく決まってしまった。
 タルバガンというのは体長四十センチほどの地リスでアルタイ山脈周辺に住む。レッドデータブックににも記載されている希少種であるが、近隣の民族は毛皮および肉をとるために、この動物の狩猟を行っている。どのようにしてその矛盾が解決されているのか、私は知らない。
 モンゴルにおいて、タルバガンの狩猟がどのように行われるかは、比較的よく知られている。この動物はたいへんに臆病なくせに、好奇心が旺盛なのである。それを利用して狩りをするのである。
 狩人はまず白い払子(ほっす)のようなものを振って踊るのであるが、タルバガンはこれがどうしても気になって仕方がない。そこでタルバガンがずっとそれを見つめている間に徐々に近づき、鉄砲でズドンである。トゥバにおける狩猟方法を私は知らないのであるが、タルバガンより小さいウルゲと呼ばれる別種の地リスを、一種の口笛で呼び出しているのを見たし、私も呼び出したことがある。全くの馬鹿者である。アメリカの友だちがトゥバ西部のムンギュン・タイガ地域でタルバガン猟を見たようであるが、彼によると「スプラッタ・ムービーだった」ということで、おそらくはモンゴルと同じなのであろう。なぜこのような間抜けな動物の名前を付けたかという最大の理由は、全く異なる言語であるモンゴル語とトゥバ語で共通の単語だったからである。ぜんぜん説教くさいような名前ではないし。この名前が少なくともトゥバにおいては間違いではなかったと思われるのは、トゥバ人たちが我々のユニット名を聞くとさもおかしそうに笑ってから、すぐに覚えてくれるということである。トゥバの西部にはタルバガンの歌まであるのだから、愛されるべき動物なのである。モンゴル人にも何人かに聞いたが、かの地にタルバガンの歌があるという情報はまだ得ていない。日本人にとってはタラバガニと間違えられることが多く、今後の課題である。
 三年に一度、トゥバの首都クズルで開かれる「国際フーメイ・シンポジウム」というのがある。この名前も手伝ってか、一九九八年七月の第三回大会において、我々タルバガンは総合で二位という外国人としては破格の賞をもらえた。出てみるものである。」
 等々力は『シベリアをわたる風』の中で、自らのトゥバでの体験と人との出会いを、「わらしべ長者」のようと書いている。それは、最近の言葉を使うなら、「セレンディピティ」の結果ということになるだろう。私には、その「セレンディピティ」こそが、クレイジートラベラーたちに共通する資質ではなかろうかと思われる。
 トゥバの喉歌にしても、さらに大きく言ってしまえば今ある芸術の多くが、「セレンディピティ」に優れた、停滞を好まない、芸術家たちの成果物ではなかったか。自分の喉が発する不思議な音声を、面白い物として見出すことのできた「セレンディピティ」の持ち主たちが、何代にも亘り、やがてその歌声が世界中に拡がる音楽にまで高めていった。芸術家たちは、物理的な距離を稼ぐトラベラーではないものの、人間の可能性を追求する自分の内面を旅するクレイジートラベラーなのだろう。ファインマンのような科学者たちも、自然の真実の姿を追求する好奇心に満ち満ちた、クレイジートラベラーだろう。
 2017年現在、世界はまた、残念ながら、政治的秘境を作りかねない状況にあるようにも見える。クレイジートラベラーにも、それほどクレイジーではないトラベラーにも、世界は開かれていなければない。この一文が、あなたの旅する心に、何かしらの印象を与えることができれば幸いである。
 旅する心こそが、新たな世界を開く鍵に違いないのだから。
 (文中敬称略)

すべてのクレイジートラベラーの道はトゥバに通ず All roads for crazy travellers lead to Tuva. ブックガイド

凡例 『書名』・著者編者訳者などの名前・(出版社名 初版刊行年)・[コメント]
[随時、追加・追記・修整します]

【本文中に登場する本・映像作品・音楽作品】

『シベリアをわたる風』等々力政彦(長征社 )
『トゥバ紀行』メンヒェン=ヘルフェン 田中克彦訳(岩波文庫)
『トゥワー民族』鴨川和子(晩聲社 1990)
『ファインマンさん最後の冒険』ラルフ・レイトン 大貫昌子訳(岩波書店 1991)
 [原書は『TUVA OR BUST! Richard Feynman’s Last Journey』 Ralph Leighton / First published 1991 by W.W.Norton & Company,Inc.,New York)]
『デルス・ウザーラ』黒澤明監督(1975)
『デルスウ・ウザーラ 沿海州探検行』(アルセー二エフ著 長谷川四郎訳 東洋文庫)

タルバガン(等々力政彦・嵯峨治彦)
『タルバガン、大地に立つ』(BOOXBOX 1998)
『マイタイガ』(BOOXBOX 1999)
『野遠見』(BOOXBOX 2005)

【参考図書・関連本・田原のお薦め などなど】

『草原情歌』ガルサン・チナグ 今泉文子訳(文藝春秋 1995)
訳者の今泉文子さんによる解説の一部。
「作者ガルサン・チナグ(モンゴル語でチナグン・ガルサン、トゥバ語でジュルク・ウヴァ―)は、一九四四年、モンゴル西端部のバヤン・オルギー県に、すなわち、ロシアと国境を接するあたりのアルタイ山脈のふところに、遊牧と狩猟を生業としてきた少数民族トゥバ人の一家の末息子として生まれた。ウランバートルのモンゴル国立大学に入学して間もなく、ドイツのライプツィッヒにあるカール・マルクス大学に留学する。そこで数年間学んだガルサンは、その後、ドイツ語でものを書きはじめ、一九九二年には、『トゥバの物語』でバイエルン芸術アカデミーからシャミッソー賞を受けた。
 「ノマドが書き手をえた」といえばあまりに魅力的だが、本書は、外側からみた単なるエキゾシズムとは無縁の、少数民族ならではの誇りと悲哀に裏打ちされた真に力強く素朴な叙事詩である。ここには、ついこのあいだまで、自然のリズムにしたがった、自然そのものとして生きてきた人間への限りな哀惜の念が満ちており、文明の隘路に陥っている現代人の胸をも強くうつにちがいない。」
『トゥバ紀行』解説より。
「モンゴルにおける少数民族としてのトゥバ族は、一九四年代以降のカザフ族優遇政策のあおりを受けて移住を余儀なくさせられるなど苦難をなめた。その時代を描いたモンゴルのトゥバ族作家チナギーン・ガルサン(トゥバ語ではシュヌクバイ・ジュルク=ウバ―)は、その作品によってバイエルン芸術アカデミーからシャミッソー賞を受けた。
 ジャーナリストで映画の製作にもたずさわるガルサンは、ライプツィヒで学んだ真に才能ある作家で、これまで発表した作品はすべてドイツ語で書いている。一九九三年に発表された『歌の終り』は、九五年『草原情歌』の訳名で文藝春秋より刊行された(訳者は今泉文子)。モンゴルのトゥバ人による、知られることの少ない作品として、ぜひ一読をすすめたい。」

『トゥバ紀行』メンヒェン=ヘルフェン 田中克彦訳(岩波文庫)関連
・『モスコー共産主義大学の思ひ出』風間丈吉(三元社 1949)
 ・『夜あけ前の歌 盲人詩人エロシェンコの生涯』高杉一郎(岩波書店 1982)
 ・『動物と人と神々』オッセンドフスキー 神近市子訳(生活社 1940)
・『亜細亜辺境異聞』(新東亜協会 1943)
 ・『トゥヴァ人民共和国』東亜研究所編(坂本是忠)1944
 ・『蒙古政治史』後藤富男 1938
 ・『近代蒙古史研究』矢野仁一 1917
『トゥワー民族』鴨川和子(晩聲社 1990)関連
 ・『南ロシア 草原(ステップ)・古墳(クルガン)の神秘』鴨川和子(雄山閣 2015)
『ファインマンさん最後の冒険』ラルフ・レイトン 大貫昌子訳(岩波書店 1991)
 ・アラン・レイトン訳「トゥバ紀行」
 ・チンギス・ブルース
 ・コンガルオール・オンダル
 ・「TUVA : voices from center of Asia」

【等々力政彦 トゥバに関する著作一覧】
Todoriki, M. 1997 Tuva. BooxBox, Ebetsu.

等々力政彦 1999『シベリアをわたる風』長征社, 神戸.

等々力政彦・榊原健一・小坂直敏・足立整治 1999「トゥバの喉歌フーメイ(ホーメイ)の歌唱について」『日本音響学会 音楽音響研究会資料』 18: 119–126.

Levin, T.C., Edgerton, M.E.著・等々力政彦訳 1999「アジア中央部の不思議な喉歌ホーミー」『日経サイエンス』 29: 72–81.

近藤和正・小西知子・榊原健一・村野恵美・熊田政信・等々力政彦・今川博・新美 成二 2000「喉歌の発声における喉頭調節」『日本音声学会 第14回全国大会予稿集』 37–42.

榊原健一・足立整治・近藤和正・小西知子・村野恵美・熊田政信・等々力政彦・今川博・新美成二 2000「トゥバ,モンゴルの喉歌における声帯振動の観測」『日本音響学会 平成12年度秋期研究発表会講演論文』 171–172.

榊原健一・足立整治・小西知子・近藤和正・村野恵美・熊田政信・等々力政彦・今川博・新美成二 2000「喉歌の発声における声帯振動の分析」『日本音響学会 音楽音響研究会資料』 19 (4): 41–48.

Todoriki, M. 2000 Tyva and Southern Siberia. Gallery Interform, Osaka.

等々力政彦 2000「ロシア連邦・トゥバ共和国とその民族音楽」『知られざる極東ロシアの自然—ヒグマ・シベリアトラの大地を旅する— 平成12年度特別展解説書』, 千葉県立中央博物館, 174–178.

等々力政彦 2000「ロシア連邦・トゥバ共和国とその民族音楽」『しゃりばり』 215: 17–21.

等々力政彦 2001『トゥバ語文法ノート』私家版, 大阪

Bicheldei , K.A. (Author), Kungaa, Chi. (Editor), Leighton, R. (Editor), Leighton, Alan (Editor), Todoriki M. (Editor), Mergen M. (Editor), Kreuger, J. (Editor), Slone, J.E. (Editor), Chakar. R.S. (Narrator), Kuular, A. (Narrator), Khovalyg, Kh. (Narrator), Deusen, K. (Narrator, Introduction), Tappan, D. (Translator), Polinsky, L. (Translator) 2003 Let's Learn Tuvan! [Workbook + CD set] (Spiral-bound). 3rd revised and corrected edition. Scientific Consulting Services International, Washington DC.

等々力政彦 2005「トゥバ民族の伝統音楽—喉歌「フーメイ」と楽器について—」Arctic Circle 52: 14–17. (査読有)

等々力政彦 2005「馬頭琴の歴史」『しゃがあ』42: 12–13.

等々力政彦 2007「トゥバの三弦の撥弦楽器ドシュプルールとその歴史—モンゴルの楽器と古代テュルクの楽器クブズとの比較を中心に—」小野田俊蔵・岡本康兒 共編『—音のシンポジウム—三味線のルーツを探る』4–11, 佛教大学アジア宗教文化情報研究所.

Todoriki, M. 2008 Old maps of Tuva 1—The detailed map of the nomadic grazing patterns of total area of the Tannu-Uriankhai—. The Research and Information Center for Asian Studies, The Institute of Oriental Culture, University of Tokyo, Tokyo. (査読有)

等々力政彦 2008「ハイマツのはなし」『森発見』9: 15.

等々力政彦 2008「トゥバ : 喉歌フーメイをめぐる歴史」『季刊民族学』124: 50–55.

Todoriki, M. 2009 Old maps of Tuva 2—Tannu-Uriankhai maps in eighteenth century China—. The Research and Information Center for Asian Studies, The Institute of Oriental Culture, University of Tokyo, Tokyo. (査読有)

等々力政彦 2009「共生のダイナミクス—現場からみた進化についての小論文—」『東洋文化』89: 63–120. (査読有)

等々力政彦 2009「生物は道を見つける」『明日の東洋学』21: 2–4.

等々力政彦 2010 「トゥバの古地図が意味するもの―遊牧民の世界認識―」『東洋文化』90: 261–293. (査読有)

等々力政彦 2010 「トゥバの弓奏楽器」小野田俊蔵・岡本康兒 共編『—音のシンポジウム—鳴ります啼きます泣いてもいます~北東アジアの擦弦楽器~』26–36, 佛教大学宗教文化ミュージアム.

等々力政彦 2010 「「結皮」:砂漠安定化の萌芽」『天地人』9: 13.

Todoriki, M. 2010 “Tuwa-ren: the emerging ethnic identity of the Altai-Tuvans in Xinjiang.” Journal of Eurasian Studies 2 (3): 91–103. (査読有) (http://www.federatio.org/joes/EurasianStudies_0310.pdf)

等々力政彦 2011「烏里雅蘇台志略にみえる、最古の可能性のあるトゥバ語語彙について」『東洋文化研究所紀要』159: 238–220 (123–141). (査読有)

等々力政彦 2012『トゥバ音楽小事典』浜松市楽器博物館. (査読有)

ハーモニーフィールズ・等々力政彦 2012 『フンフルトゥ2012年日本公演』私家版

等々力政彦 2014「内モンゴル敖漢旗喇嘛溝の遼墓壁画に認められる、台形胴の長頸リュートについて」『真宗総合研究所研究紀要』31: 49–63. (査読有)

等々力政彦 2014「声」国立民族学博物館 編『世界民族百科事典』, 478–479, 丸善出版. (査読有)

等々力政彦 2015「ロシアのアジア:シベリアの先住民とその音楽」『浜松楽器博物館・総合案内』69–76.(査読有)
[先頭の「Todoriki, M. 1997 Tuva. BooxBox, Ebetsu.」CD-ROM電子本『TUVA トゥバ』で等々力政彦のデビュー作であると同時に、私(田原洋朗)1997年に起こした、ブックスボックス(BOOXBOX)の第一作でもあった。]

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羊 狼 通 信 ブックレビュー&ガイド 2016年12月 004/120

柳家の人びと(一) 「宗悦と兼子」



はじめに
 柳宗悦(やなぎ・むねよし 1889‐1961)の名前を知らない人でも、「民芸」という言葉はどこかで耳目に触れているのではないだろうか。「民衆的工芸」の意味を含むその言葉が現れた日は特定されていて、宗悦はその提唱者の一人だった。その日は1925(大正14)年12月28日、木喰佛調査のために紀州を旅していた宗悦の同行者は、ともに日本を代表する陶芸家となる河井寛次郎(かわい・かんじろう 1890 - 1966)と濱田庄司(はまだ・しょうじ 1894 – 1978)。三重県津へ向かう三者の、車中での語らいの中で生まれた言葉だったという。
 筆者にとって「民芸(運動)」は常に関心を持って接するテーマの一つで、今後この連作レヴューでもいろいろな側面から、何度か取り上げることになろう。その初回である以上、本当なら「民芸(運動)」そのものの紹介から始めるべきだったろうと思う。が今回は、民芸運動の創始者の一人にして中心人物であり続けた宗悦と、その妻柳兼子(やなぎ・かねこ 1892 - 1984)の関係性について紹介したい。
 この小文のために宗悦と民芸運動についての文献にあたる過程で、兼子の存在の大きさ・ユニークさに気付かされ、驚かされた。兼子は、宗悦の妻であり、民芸運動を支える協力者であり、嫁として柳家の台所と家計をあずかり、三人の子供の母であり、日本を代表する優れた声楽家であり、多くの弟子に慕われる音楽教育者であった。

「直観の人」柳宗悦
 「主人」柳宗悦の生涯の仕事の全体像をまず大まかに把握しておこう。
 宗悦の死後十八年ほどして発刊された『回想の柳宗悦』著者代表・鈴木大拙/編者・蝦名則(八潮書店 1979)所収の、寿岳文章(じゅがく・ぶんしょう 1900 – 1992)文「民芸運動の開拓者」中に、宗悦の仕事に関しての簡潔で的を得たまとめがある。英文学者・書誌学者・和紙研究家として一生を終えた寿岳は、1931年に宗悦とともに『ブレイクとホイットマン』を創刊、夫婦同志で深い親交を結んでもいた。
 寿岳は宗悦の仕事を、連峰になぞらえて紹介している。
「いま、柳さんの一生を意義づける仕事をふりかえってみると、私には五つの峰がイメージとしてうかびあがる。それを年代順に記せば、第一は、「白樺」の同人として、宗教や哲学や文学における神秘思想をたずね、東洋的な思惟形式の深さを示したこと。ブレイクホイットマンの研究もこの支峰の脈である。第二は、朝鮮の民衆への温かい理解と愛情を土台として、日本の朝鮮統治者たちからは、一向にとりあげられなかった民衆的工芸品や美術品に愛護の手をさしのべたこと。第三は、長い間うずもれていた木喰五行上人の異色ある彫刻や行実をあきらかにして、日本の宗教美術史に不朽の何ページかを加えたこと。第四は、従来の美術批評家や美術史家から全く無視されていた民芸品の美と意義とを確認して、それに正しい座を与えたこと。第五は、妙好人の信仰を中軸とする他力易行の教えに、生活の原理を発見したこと。これら峰々は、もちろん重層的につらなりあう。たとえば、第一と第五は同じ峰の表裏とも言えるし、第二と第三は、第四の鞍部と見てもよい。そして第五が、第四の峰からのながめをきわめて趣き深いものとする。柳さんは、かたくななほどに一本調子の人であった。」

「柳一代の仕事のうちで、質量ともに最も大きいのは、言うまでもなく民芸運動に関するものだ。東京駒場の日本民芸館と、民芸品を取り扱った数多い著書は、その結晶である。朝日文化賞も、この仕事の意義を認められて与えられた。もちろんその背後には、父子二代にわたる大原家のたゆまぬ援助や、河井寛次郎、浜田庄司、その他の同志たちの協力があろう。しかし何といっても柳さん自身の、あのものにとりつかれたような熱意と執念がなかったなら、民芸運動はここまで幅広く浸透していないであろう。批評家の中には、柳さんが民芸品一辺倒なのを難ずる人もいる。もっともだとは思うが、このはげしさがあったればこそ、先人未発の地域は開かれたのである。柳さんは、よい意味での教祖的存在であった。」
 宗悦に師事し、長くその傍らにあった水尾比呂志(みずお・ひろし 1930‐ )は、宗悦の仕事・研究の全体を、「柳山宗悦寺とも呼ぶべき壮大な伽藍に譬え」て紹介している。『評伝 柳宗悦』(ちくま学芸文庫 2004)より引用する。宗悦本のブックガイドとして読める文章でもあるので、長めではあるが紹介したい。
 「柳宗悦初期の時代では、探究の基礎となるべき哲学と宗教と藝術の各分野における、緊密な関聯を持った思索が積重ねられた。宗悦寺へと私たちを導く参道の端には、初めての著作『科学と人生』という記念碑も立っているが、山門ともいうべき位置に置かれるのが、爽やかな「哲学におけるテンペラメントに就て」をはじめとする諸論攷である。「哲学は畢竟個性の深い直接経験の学」という確信を、彼は「直観」という行為によって遂行して行き、それを以後の柳学の唯一絶対の方法論とする。
 この方法論で把握し、直接体験の情熱的な研究を成功させた、驚異的な『ヰリアム・ブレーク』は、宗教性と藝術性の濃厚な統合体であるこの宗教的藝術家をわがものとすることで、宗悦自身の哲学に宗教と藝術を同化せしめた。「肯定の二詩人」でウォルト・ホイットマンとともに論じた「肯定」とは、自然のありのままの姿に対する肯定、相対立する精神の諸々の性格への肯定である。対立する概念を解き放ち、それらが合一する自由な世界への讃美を謳う二人の詩の苑は、はるか宗悦寺奥の院の、二元的超越不二の世界を予感させ、『ヰリアム・ブレーク』を壮麗な寺門として浮かび上らせている。
 そのかなたの寺院には、宗悦初期の宗教哲学の著作群の堂宇が連なる。「肯定神学」から「否定神学」へ進み、さらに「神秘神学」に入った、と彼みずから述べるその宗教哲学の探究の歩みは、しかしキリスト教神学のみに止まるものではなく、宗教宗派を超えた遍歴であった。そしていかなる場合にも、目指すところは宗教における究竟の相であって、そこに迫るさまざまな思索によって建立したのが、これらの堂宇なのだ。たとえば『宗教とその真理』や『神に就て』は、この寺域の美しい記念の塔と言い得よう。
 ここを下ノ院とすれば、中ノ院は、朝鮮李朝の陶磁と木喰佛とを阿呍に配した門構の内に、工藝の美と性とを探究した、柳宗悦中期活動を物語る本坊の諸堂宇が聳え立つ。『陶磁器の美』を玄関とし、『雑器の美』『工藝の道』『初期大津絵』『工藝文化』『手仕事の日本』などをはじめとする数多の伽藍が、それぞれに無数の論考の調度什器を充満させた広間小間を擁して、相接し立並び、その間は巧みに渡廊下で連結されている。伽藍相互間の調和や、各室を飾る種々の新古の作物の美しさは言うまでもなく、河井・濱田・芹澤・棟方らの独自の個性を輝かせた堂宇がこの寺域の美観に寄与し、リーチの東西融合の亭の美観はとりわけ好ましい。あらゆる工藝の諸相や諸問題を具体化したその部屋々々の確かな構造もさることながら、全伽藍を綜合する工藝美学の宗教性が、この中ノ院の世界無比の浄域を形成しているのである。中心に位置する法堂では、他力門と自力門の工藝の説法が常時聞かれ、庭の茶亭では新たな茶衣と茶器による新たな茶事も試みられている。これらの中にあって、とくに際立った大厦こそは、「日本民藝館」と称される宝蔵であって、その蔵品と展観のみごとさは、宗悦寺が世界に誇るに足るものだ。
 さて、工藝美の大厦を出た巡礼の人びとの足は、そのまま清々しい木立を縫う山道を、柳山の頂近くにある奥の院へと導かれる。道の両側には、妙好人の語録を刻んだ石碑が立並ぶ。それらは、本坊の大伽藍の建立の頃から、雲霧におおわれたこの山岳の深奥に心を馳せていた宗悦が、やがて美の法門の建立に着手して山道を登り降りする度に配した記念碑である。彼はそこに、無数の無名の工人たちや器物への供養と、彼等を美の浄土へ迎接し給うた佛の慈悲への、限りない讃仰をこめている。
 この奥の院は、柳の晩期に到達した信と美を一如とする浄域である。『美の法門』『無有好醜の願』『美の浄土』『法と美』の四宇を中心に、「佛教美学の悲願」をはじめとする多くの小宇に囲繞されている。さらに人びとは、『南無阿弥陀佛』『一遍上人』『因幡の源左』などの諸室を擁する別院が建てられているのも見ることができるであろう。ここが柳山宗悦寺の究竟であり、はるか麓の山門から続く他力の道の極まる所、そしてもう一筋の自力の道もまた到達する不二の境なのだ。
 自筆自装の偈の書軸に心を託して、そこには宗悦自身も姿もなく、木ノ葉を渡る風が名号の如くに唱和しているだけである。」
 水尾も文中に触れている、宗悦の「直観」についての記述を、別の評伝から引用しておこう。阿満利麿『柳宗悦 美の菩薩』(リブロポート 1987)中の「眼の人」より。「鈴木繁男は、昭和十年二十二歳のとき柳宗悦のもとへ書生として入って以来、柳宗悦に親しく師事してきた。その鈴木に柳宗悦はどのように映ったか。」
 鈴木繁男(すずき・しげお 1914 - 2003)は語る。
 「朝の食事をいただきます。私は田舎育ちですから先生のすぐわきで食事をいただくということは、行儀のいい家庭ですからね、非常に私は緊張しました。御飯がのどへ入っていかないと思うこともありましたけれども。食事がすんだあとですね、「鈴木君、あの包みをちょっともってきてくれ」というんです。で私はその包みを先生の前におきます。先生がそれをほどきましてね、そのなかから私のみたこともない焼物を出して先生、ごらんになってね、私の前に置いてーー私は指つきを覚えています。こういう指つきをします(人指しゆびを親ゆびと結ぶ)。ズ―とおすんです。私のところへズーとおしてよこすのです。無言でおしてよこします。
 私は見ろということだろうと思って見ているのです。何をいったよいかわからないのです。そのときにね、「君はね、反応がおそいよ」といわれるのです。到着したあくる朝からです。「君、毎日これからやるからね、ぼくがこれはどうだといえば、即座に、わからない、いいなり、よくないなり、自分の意見をいいなさい」といわれるんです。なんのためにこのような訓練をされるのかですね、三年目に私はノイローゼになりました。
 とにかく、あれくらい強い直観力というか、するどい観察力をもった人はちょっと今までにない。ほとんど眼がなかったら先生の深い思索もうまれなかったんだろうと。先生のお書きになったもろもろの論説というのは、ほとんど眼でみたことを、ぼくからいわせるとどのようにいいあてるか、いいあてる。それは、過去の経典や東洋に伝わった言葉を用いますけれどもね、それでもって自分で見たことをいいあてる、それが先生の仕事ですね。
 それからもう一つは、自分のみたものの本質というものの同類を、証拠を集めてくる。それが先生が民芸館をつくったきっかけになっていると思います。(一九七九年八月二十九日「テレビ評伝・柳宗悦」から) 」
 阿満利麿(あま・としまろ 1939 - )は綴る。
 「柳宗悦に「どうしたら美しさが分るか」(『全集』第九巻所収)という一文がある。それによると、美しさが分るためには、自分を虚しくしていなければならない。自分が何かを主張しようとするのではなく、「凡てを受けとろうとする心」になりきることが大切なのだ。それは「印象」といってもよい。そして、「印象」は鮮やかであればあるほどよい。あくまでも第一印象が、美をつかみとるためには肝要なのだ。そして、鮮やかな「印象」とはとりもなおさず、「早い反射運動」にほかならない。鈴木繁男氏が「即座に」反応せよと求められた理由である。それは、さらに言葉をかえれば、「直観」にほかならない。
 そして、柳宗悦によれば、「直観」とは、物と眼の間になんらの介在物をさしはさまず、物そのものに「ぢかに触れる」ことなのである。文字通り、直にみる、のである。もしその間になにものかを介在させるならば、つまり、先入観にとらわれてものを見るとすれば、それはもはや「直観」ではなく、独断となる。柳宗悦は、独断をきらった。直観に即することこそなによりも大切だと考えたのである。柳宗悦はいう。
 直観とは物を素直に受け取る力です。迷はず汲み取る力です。ものにぢかに交る力です。活き活きとした印象を心に刻むことです。  (「どうしたら美しさが分るか」、『全集』第九巻)」
鈴木繁男氏の言葉でいえば、まず見るのであり、そののちにそれに表現(言葉)を与える。もし、言葉がさきであれば、それは独断にほかならない。もちろん柳宗悦は、言葉を否定はしない。しかし、美をつかむためには、言葉は二次的な役割りしかもっていない。見たことをいいあてるとは、柳宗悦の本質をあらわしていて妙である。」


「妙好人」柳兼子

 こうしてみると、柳宗悦の仕事は、現在の定評通り唯一無二の偉大なものであり、宗悦その人格もまた高潔で、欠点などないかのように思われてくる。しかし、宗悦に関する伝記を読めば読むほど、身内ではない男性が描く宗悦の姿と、家族肉親や女性(特に兼子の側により近くいた)が記述する宗悦の姿に、大きなギャップを感じるようになってくる。
 そのギャップの一例として、宗悦・兼子夫妻の長子柳宗理(やなぎ・そうり(本名むねみち) 1915 – 2011)が、両親の死後に、その夫婦関係について主に兼子の立場に立って書いた文章の一部を紹介する。『柳宗理 エッセイ』(平凡社ライブラリー 2011)より。
 「音楽学校に入って間もなく、兼子は将来の夫となる柳宗悦と知りあった。兼子が十八歳、宗悦が二一歳の時であった。大学生になったばかりの宗悦は、間もなく彼女を慕うようになった。思想的に大変早熟であった哲学者宗悦は、既に最年少にして白樺同人の中心人物の一人になっていた。そしてその思想は他の白樺同人と同じように、すこぶる理想主義的で、藝術至上主義的なロマンチシズムに富むものであった。そして宗悦は純粋な憧れを以て約四年間、彼女に恋文を何百通となく書き続けたのである。私は母兼子が死に近づきつつある時、彼女が大事に蔵っていたその手紙を、初めて開いてみて、その驚くべき量と、その切々たる純粋の思慕に、息子ながらも、この世にかくも純粋な恋心があるものかとびっくりして息を弾ませた。
 宗悦は初め兼子の歌に感銘することによって、心から彼女を慕い始めたことは確かだと思うが、彼は彼女への恋文の中に、絶えず彼女の歌についての意見と希望とを述べて彼女を鼓舞した。特に興味あることは、宗悦は彼女の藝術家としての行為と、家庭人としての女の務めが、両立することの可能性を、彼女の将来の中に見出し得ることを、確信を以て述べていたことだった。しかしこの問題は結婚後、彼女が現実として味わった最も困難な問題として、幾度か躓きそうになって苦しむこととなったのである。宗悦の兼子への思慕は、宗悦の思想にこの上ない活力を与えた。と同時に、兼子は宗悦に慕われることによって、その歌に一段と人間味の潤いのある豊かさを増したことは、疑いない事実だろう。」(「素晴らしい苦闘の生涯」)

 「私たち兄弟の入学のため、大正一〇年頃、東京に引っ越した。しかし大正一二年関東大震災があり、父の兄悦多(よしさわ)が死んだり、その他色々な不幸な事情から、宗悦は無一文になってしまった。しかし経済的頭をほとんど持たない宗悦は、家計の苦しいのにもかかわらず、どんどん自分の好きな物を買い漁るのに夢中であった。従って、以後は母兼子が音楽で稼いで、父宗悦に貢ぐ恰好になってしまったのである。」(「宗悦の蒐集」)

 「結婚前には宗悦は、音楽の修業のために外国に行かねばならないと薦めていたが、結婚後はそんな余裕は些かも兼子に訪れてはこなかった。そして初めて外国ドイツに行ったのは四〇近くになってからであった。それも半年余りで家庭のために帰らざるを得なかった。ピアノも長い間、がたがたのアプライトを使っており、やっとグランドピアノを手に入れたのは五〇歳を過ぎてからだと思う。
 (中略)
 母兼子は夫宗悦の我儘な気難しさに、不平を言いながらも、矢張り宗悦の仕事に共感し、一生懸命夫についていった。又、宗悦も妻兼子の歌には感心していたらしく、最初のうちは必ず彼女の音楽会に出掛けて神妙にその歌を聞いていた。母兼子は夫宗悦の影響を受けて、色んな美しい物を見付けては喜んでいた。二人は激しく喧嘩をしながらも、矢張り美の喜びを共に頒つことによって、その仲が保たれていたような気がする。勿論、私達子供が父と母との間の絆になっていたことも事実であろう。
 戦後やっと世間が平和になると、父宗悦は母の音楽会には殆ど行かなくなってしまった。そして母の父に対する不服は段々と大きくなって来たようだった。夫婦喧嘩も愈々激しくなり、険悪になったことも屢々あった。しかし、その頃は私も弟宗玄も大きくなっていて、父母の喧嘩の間に入ることも屢々あった。勿論、父親の勝手な振舞いに抗して母に味方する時が多かったような気がする。そしてそれほどまでに喧嘩しながらも、何故父と母がまだ一緒にいるのかということが、子供としてでさえも不思議に思えたことがあった。しかし母は最後まで辛抱した。そして父が亡くなった時、さぞかしほっとしたに違いない。しかし反面、父の死後、夫宗悦の偉大なる真価をあらためて身に感じ、絶えず夫を追慕していたことも本当だと思う。そして夫に従って身を挺した民藝館のことを何時も心配していた。
 最初、母の藝は父宗悦によって磨かれたことは言うまでもない。結婚後母の藝術は、家事の繁雑さ、特に気難しい父宗悦の横暴によって、勉強の時間が中々とれなかったことは事実だろう。母が父から離れて自由になれば、母の藝術はもっと開かれ進歩しただろうと言う人がいるが、私は必ずしもそうとも思わない。なるほど、家庭の主婦としての務めの繁雑さは、彼女の藝術の才能を自由に振舞うことを或程度制限はしただろうが、気難し屋の父のもとで、主婦としての苦労に耐え得たことは、それだけ人間を大きく深くしていたに違いない。」(「素晴らしい苦闘の生涯」)
 次男柳宗玄(やなぎ・むねもと 1917 - )の証言もある。
 「民芸館は、日支事変の始まる直前のころ、父が友人たちの援助を得て設立したもので、財団法人になっていたが、その維持はなかなか大変であったようである。父を中心とする民芸運動に対しては、世間は冷たく、戦後になっても、民芸館はいつも人影がまばらであった。訪問者はむしろ外人の方が多かった。日本の庶民社会の伝統のすばらしさには、外人の方が遥かに理解があった。
 ともかく民芸館は、いわば父の最愛の「息子」であった。実の息子は三人とも、どうやら一人立ちする見通しがついた。しかし民芸館は先々どうなるか。そんな心配もあったろう。
 それに、私たち家族から見ると、民芸館と隣接して建てられた我が家は、すでに半ば民芸館なのであった。我が家の入口に建てられた長屋門は、できて間もなく民芸館のものとなった。我が家で日常使っている食器などが、ふと消えると、それが知らぬまに民芸館に陳列されていたりした。もちろんそういうものはもう我が家には戻ってこなかった。ふだんから(民芸館ができる前から)、父は、自分の収入(たいしてなかったようだが)は家庭の方にはほとんど廻さず、専ら民芸館の仕事に使っていたようである。一家(父を含めて)の生活は、母の方が支えていたようだった。父は次から次へと立派な仕事をし、民芸館を育て上げたが、私から見れば、それらは半ば母の蔭の力に負うものであった。」(『回想の柳宗悦』所収「父宗悦と朝鮮」)
 さらに、民芸とは縁の薄い声楽の側から「兼子の生涯とその夫宗悦」を描くことになった松橋桂子の『楷書の絶唱 柳兼子伝』(水曜社 1999)に登場する宗悦は、ついに「専制君主」になぞらえられてしまう。
 「二人が結婚してから丸四年経った。「結婚前に柳が言っていたことと、結婚後の現実の姿があまりにも違うのでびっくりしました。こんな怖い人ではないと思って結婚したのに、本当に怖い人でしたよ」と兼子は語る。その違いと怖さの実態はどうあったのだろう。
 宗悦が結婚前に掲げた「理想の愛」は、現実にまみれて変貌をとげたのであろうか。観念的に描いていた芸術家の夫としての自らの役割と、その精神性はすっぽり抜け落ちたかのようで、実生活者としての宗悦は専制君主そのものであった。宗悦は兼子に、一個の自立した芸術家である以前に妻であり母であることを要求した。家に籠って思索にふける宗悦は、わが子の泣き声や遊びまわる騒音にも我慢ならない。そういた神経の過敏さから、夫婦の間によく揉め事が起きた。居候をしているリーチの兼子に対する挨拶は「ヤナギーオコッテルカ」であった。
 志賀直哉武者小路実篤の従妹康子と結婚したのは、兼子の結婚した同じ年の十二月だから、我孫子では共に新婚家庭といえる。しかし直哉と康子がその家庭の基盤を築くうえで、夫唱婦随の中に夫婦としての調和を獲得していったのとは異なり、兼子と宗悦は出発から五分五分の対等であった。むしろ社会的評価では、自立した表現者として兼子の方が勝っていた。当然二人は志賀夫妻の調和よりも、互いに競い高めあう夫婦の関係になる。この点は、宗悦の「共に勉励しあい何ものかを世に残す」と掲げた「理想の愛」の体現である。というところまでは理想的でありうる夫婦関係ということになるが、現実には、それだけではすまない時代の制約の中の、男と女の関係が影を落とす。とりわけ宗悦の中に隠されてある封建的な男性気質と、自立した音楽家でもある兼子の勝ち気で激しい気性がぶつかれば……。
 (中略)
 宗悦の掲げた「理想の愛」は、経済面からも夫婦のあり方からも変質を迫らざれるを得なかった。それは宗悦にとって大きな痛手だったに違いないが、兼子は婚約中に、宗悦の要求する理想の音楽と日本音楽界の現実との板ばさみに苦しみぬき、理想の音楽家の実現を結婚後に委ねていたから、宗悦以上の失望を味わっていた。」
 兼子さんご自身の語りも引用しておくべきだろう。
 竹西寛子(たけにし・ひろこ 1929‐ )『人と軌跡』(中公文庫 1993)より。
 「帝国劇場の東京フィルハーモニーの演奏会で「ハバネラ」を歌い(大正三年)、本郷の青年会館で独唱会を開いた(大正七年)柳氏は、我孫子では井戸端でおむつを洗う若い主婦だった。「風光明媚」だけれども不自由な土地だった我孫子で、ランプをつけて風呂を焚き、子どもをおぶって歌の稽古をした。車井戸の水汲みも、「腰を鍛える体操のつもりで、この時とばかり一生懸命やりました。」
 足かけ八年をその土地で過し、東京にもどった柳一家は震災に遭うが、志賀氏の誘いもあって翌年京都に移っている。京都在住約十年で帰京、やがて民芸館の開館となる。

 ――柳は、一口に言うと外面のいい人で、表ではにこにこして抑えているんでしょうけれども、玄関を入るといいも悪いもない、あたくしが爆発の引受所なんです。反対だといいなと思うことがよくござんしたよ。なかなか細かくて厳しい人でしたが、めんどうくさいことは、お前よきにはからえ、なんです。まるでお殿さまでした。決して頭を下げない人ですからね、衝突してもこっちは途中で黙ってしまう。だってしようがないんですもの。考えようによってはあたくしがのんき者だから、怒られたり、叱られたりしながらも続いたんでしょうね。」

 「家庭をもつなら歌よりもまずいい妻に、と言う柳氏は、「歌うことを知っていてほんとうによかったと思います。自分が打ち込んだ歌ってものがなかったら、柳が亡くなったあとはもぬけのからですわね。自分は柳のためにばかり生きてきたような気がするでしょう」と言い、また「あたくしは結婚していなかったら、歌でももっと思いきり仕事をしたかもしれない」とも語る柳氏である。
 「よく歌の道一筋に」と言う。恩賜賞受賞を祝う記事にも、そうした言葉をみかけたものだが、柳氏の場合はちょっとニュアンスが違うようである。「歌を捨てるつもりじゃなかったら結婚はするな」、この反語的な色合をもった言葉には、長い間声楽家と家庭人との両立困難に苦しみ、同時にまた、かけがえのないよろこびをも温めてきた柳氏の人生観がこめられているように思う。過程を軽視するような人の歌には魅力はない。素質な能力のある人なら、歌を捨てるつもりで結婚してもいつかは歌わずにはいられなくなるだろうし、そういう歌こそ養い、鍛え磨くにふさわしい、そんなふくみをもった言葉なのであろう。」
 『評伝 柳宗悦』文庫版の巻末には、著者水尾比呂志による、兼子へのロングインタビューが収録されている。
 「――その我慢してらっしゃるっていうのは、ご自分で抑えていらっしゃるんですか。
  柳 できるんです、抑えていれば。だって、人間っていうのはみんな違いますものね、心が。だから、こちらでもって嬉しいときだって、向うは悲しいこともあるでしょう。そんなこと、いちいち察していられませんからね。それが私の歌になったんでしょう、あるところ考えてみるとね。
 ――そういうふうにお思いになったのは、いつ頃からでしょうか。
 柳 自然にそういうことを考えるようになりました。それで、悲しいときに悲しい歌を歌って、悲しい心を歌えばそれで済むんです。嬉しいときには嬉しく、すぐ変えることができますし、そういうことに私はわりあい慣れているんですね。」
 自信家・負けず嫌いである宗悦は、自分自身の兼子に対する姿勢や立場を無意識のうちに正当化し、兼子の協力・忍従を当然のものとしたのではないか。外面は良いものの、身内に対しては強くあたる夫・父は一定数存在するが、宗悦もまたその典型だったように見える。それは、幸福な結婚であると同時に、不幸な結婚でもあったのかもしれない(ほとんどの結婚がそういうものだとも言えようが)。
 宗悦の直観は兼子という才能を認めたが、宗悦の才能とはまた違った種類のその才能は、宗悦が制御できる性質・範疇のものでも、制御できる範囲に収まる大きさでもなかったのだろう。兼子もまた、宗悦という巨人の傍らにいて、その踏み台として一生を終えることを良しとせず、踏み台にされる恐怖と戦いつつ、良人を愛し続け、自己を実現していった。
 極論すれば、宗悦にとって兼子は、その才能を認めざるを得ない、自分の制御下に置けない、厄介な存在だったのではないか。嫉妬の対象にさえなりかねないような。宗悦にとってみれば、自分にはない才能を持った人間が、無邪気に逞しく健康にもっとも身近にいたのである。そんな二人の間に、葛藤が生まれないわけがない。
 宗悦の兼子の本質を捉える直観は正しかったが、宗悦の兼子への振舞いが正しかったとはいい難い。逆に、兼子の宗悦の本質を捉える直観が正しかったとはいいにくいが、兼子の宗悦に対する振舞いはほとんど間違ったところがない、という印象である。宗悦の運動は、兼子という人間を併吞することなしには発展えなかった側面があることは否定できない。一方、兼子は、宗悦にもその運動にも完全には吞み込まれることなく、逆にそれを糧として、一個の個性として成長・成熟したのだろう。
 柳宗悦は「妙好人」について書き、柳兼子は「妙好人」そのものであった、ということか。身近な「妙好人」の存在に気付けなかった「眼の人」宗悦の「眼」のあり方について、今一度考えて見るのも面白いかもしれない。一方「妙好人」柳兼子は、「妙好人」としてではなく、柳兼子その人として、生を全うし世を去ったのだろう。

 鶴見俊輔(つるみ・しゅんすけ 1922 - 2015)の著書『柳宗悦』(平凡社ライブラリー 1994)からの引用で、この小文の終わりとしたい。
 「その思想を生きる生き方という一点で人を見るならば、こどもの眼には、父親よりも母親のほうが自分の思想を忠実に生きているように見えるだろう。それは、父親の方が母親よりも遠大の理想を語り、それをほうりっぱなしにする確率も高いだろうと思われるからだ。母親の方が、すくなく語り、その理想も、日常生活からそれほど離れるものではなく、またその少なく語ったことを父親よりも実行する場合が多いだろう。しかし、そういう一般条件(これは日本の息子・娘が父母について語る場合に統計的に真だと思うのだが)からはなれて、柳兼子という人は、人間の大きさを感じさせる稀有の人だということができる。宗理氏の意見を、息子の偏見として私はきくことができない。
 一九二七年(昭和二年)生れの四男宗民氏は、母の兼子氏が土いじりが好きだったことから影響をうけて園芸に入って行ったそうだが、この人は、父母のことを次のように書いている。
父は、民芸の研究をし、美の研究をする根源として、仏教の研究を終生続けていた。仏の教えについて、私は父の書いたものを読むことによってよく理解出来た。私が父から教えを受け影響されたことといえば、この仏の教えについてである。しかし、息子の私から見ていると、教えを説いたのは父であったが、身をもって実践したのは母に他ならない。 (柳宗民「芸の道は心の道――母柳兼子のこと」、『婦人の友』一九六二年十月号)
 私は三十年来の読者として柳宗悦の著作だけを追って来たが、今度はじめて伝記にわたることをしらべて、こうした肉親の回想を読み、面白い問題に出会ったという気がしている。私の理解しているかぎりでの柳宗悦の思想から見て、家庭の中に自分よりも大きな存在があるということは喜ぶべきことではなかったか。」

 (文中敬称略)

柳家の人びと(一) 「宗悦と兼子」 ブックガイド

凡例 『書名』著者・編者名(出版社名 初版刊行年) / [田原のコメント]
[随時、追加・追記・修整します]

本文中に登場する本
回想の柳宗悦』蝦名則 編(八潮書店 1979)
評伝 柳宗悦』水尾比呂志(筑摩書房 1992/ちくま学芸文庫 2004)
柳宗悦 美の菩薩 シリーズ民間日本学者』阿満利麿(リブロポート 1987)
柳宗理 エッセイ』柳宗理(平凡社ライブラリー 2011)
楷書の絶唱 柳兼子伝』松橋桂子(水曜社 2003)
人と軌跡』竹西寛子(中公文庫 1993)
柳宗悦』鶴見俊輔(平凡社ライブラリー 1994)

ブレイクとホヰットマン
「白樺」

科学と人生』柳宗悦(籾山書店 1911)
ヰリアム・ブレーク
宗教とその真理』柳宗悦 (叢文閣 1919)
『神に就て』
陶磁器の美
『雑器の美』
『工藝の道』
『初期大津絵』
『工藝文化』
『手仕事の日本』
『美の法門』
『無有好醜の願 不二美の願 仏教美学の悲願』(日本民芸館 1957)
『美の浄土』
『法と美』
南無阿弥陀佛
『一遍上人』
妙好人 因幡の源左
参考図書・関連本・田原のお薦め などなど
柳宗悦妙好人論集』寿岳文章編(岩波文庫 1991)
民藝四十年』(岩波文庫 1984)
『手仕事の日本』
『工藝文化』柳宗悦(岩波文庫 1992)
『南無阿弥陀仏 付心偈』
『柳宗悦民藝紀行』
『柳宗悦随筆集』
『柳宗悦茶道論集』
『柳宗悦 妙好人論集』
『新編 美の法門』

『手仕事の日本』講談社学術文庫
『茶と美』講談社学術文庫
『民藝とは何か』
『工藝の道』
『柳宗悦全集』
『工藝』
民藝運動に関する研究書など
『柳宗悦と民藝運動』熊倉功夫・𠮷田憲司 共編(思文閣出版 2005年3月25日発行 4784212361)
『柳宗悦・民藝・社会理論 ―カルチュラル・スタディーズの試み―』竹中均(明石書店 1999)
『柳宗悦・時代と思想』中見真理(東京大学出版会 2003)
図録『柳宗悦展 「平常」の美、「日常」の神秘』(三重県立美術館 1997)
『美と真を求めて』小林多津衛(用美社 1987)
『民藝の発見』熊倉功夫(角川書店 1978年)
『柳宗悦と民藝の現在』松井健(歴史文化ライブラリー 吉川弘文館 2005)
『日本の住まい 上中下』E・S・モース 斎藤正二・藤本周一共訳(八坂書房 1979)
『日本その日その日』モース ※「収集家」松浦武四郎との出会い
『境界の美術史 「美術」形成史ノート』北澤憲昭(ブリュッケ 2000)
『バーナード・リーチ日本絵日記』柳宗悦訳・水尾比呂志補訳(講談社学術文庫 2002)
『柳宗悦 「複合の美」の思想』 (岩波新書)

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羊 狼 通 信 ブックレビュー&ガイド 2016年11月 003/120

読まず嫌い読者のための村上春樹長編小説案内


「二人はもう一言も口をきかなかった。言葉はそこでは力を持たなかった。動くことをやめてしまった踊り手たちのように、彼らはただひっそりと抱き合い、時間の流れに身を委ねた。それは過去と現在と、そしておそらくは未来がいくらか混じり合った時間だった。二人の身体の間には隙間がなく、彼女の温かい息は規則正しい間隔をとって彼の首筋にかかっていた。つくるは目を閉じ、音楽の響きに身を任せ、エリの心臓が刻む音に耳を澄ませた。その音は突堤に繋がれた小型ボートがかたかたと鳴る音に重なっていた。」 村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』より

まずはじめに

 村上春樹(1949― )が現代日本を代表する小説家であるか否かに関わらず、村上春樹(作品)が嫌いな人はいつも一定数存在する。ベストセラー小説を敬遠する人、なにかと話題なので試しに読んでみたが性に合わなかったという人もいるだろう。あくまで他人様の好き嫌いだし、またどんな文豪のどんな名作でも読まなければ死ぬ、というようなものでもないわけで、そんな「アンチ・嫌・反」村上春樹(作品)の人に、私があえて異議申し立てする必要はない。その気もない。
 とはいえ、優れた作家と同時代に生きながら、その作品を未読で終わるのは、すべての食べず嫌い同様、ちょっと勿体ないだろうと他人事ながら思う。「読まず嫌い(読まない、読みたくない、もう読みたくない)」読者にも、一口ならぬ一冊を試してもらえたらよいのだが、という気持ちで、この小文を書き始めた。余計なお世話であることは、重々承知の上で。
 私は、1979年から現在まで、公刊された長編小説13作品のすべてを読んでいる。しかも複数回以上。作家の活動期が、自分の生涯の20歳過ぎから今現在までとほぼ重なってもいる。今回この小文のために、その13作全作品を短期間に改めて読み返し、またもや至福の時を過ごした。若い頃に読んだきりの作品に、新しい発見があったりもした。つまりは、物心ついてからこのかた、村上作品の読者であり続けているということだ。
 さしたる興味もない人がそれを聞いたら、ごく自然に「熱心な村上春樹ファンなんだな」と思うだろう。が、私はより熱烈な読者をたくさん知っている。私は、彼らに比べたら、「普通」の村上作品ファンだ。程度の差はあれ、読まずにはいられない読み手が多数存在して、その結果ベストセラー作家村上春樹がそこにいるわけだ。自分では熱狂的な読者とは思わないが、気がつけば現実として長いこと読者をやっている人、としてこの紹介文を書き綴っておこう。
 作家の年齢が70歳に近くなった今も、長編小説に限らず、その作品は世界中で途切れることなく若い読者を獲得している。そんな新しい読者には、私のような古くからの読者の言葉も、多少は面白く感じられるかもしれない。そして、私の同世代(とその周辺の年代)の読まず嫌い読者には、もうすぐ待ち受ける長い老後の、新たな楽しみの一つでも提示できればと思う。

村上春樹長編小説クロニクル

 さて、「読まず嫌い読者のための村上春樹長編小説案内」というこの小文の題名は、村上春樹『若い読者のための短編小説案内』(文藝春秋 1997)をもじったものだ。熱心な読者には言わずもがなだが。なぜ「短編」ではなく「長編」なのか。それは、村上春樹にとっての創作上のメインストリームは、おそらくは作家自身にとっても、長編小説にあるのだろうと考えた上でのことだ。
 読まず嫌い読者に、とりあえずその長編小説作品の一冊を手に取っていただかなければ、話は始まらない。どんな作品があるのか、刊行年代順に、題名と発行年をあげて並べてみる。
『風の歌を聴け』1979
『1973年のピンボール』1980
『羊をめぐる冒険』1982
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』1985
『ノルウェイの森』1987
『ダンス・ダンス・ダンス』1988
『国境の南、太陽の西』1992
『ねじまき鳥クロニクル』1994・1995
『スプートニクの恋人』1999
『海辺のカフカ』2002
『アフターダーク』2004
『1Q84』2009・2010
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』2013
 しかし、これだけでは単なる文字・数字の羅列で、内容の見当がつかない。結局、どの一冊から読めばいいのか?処女作から始めるべきという意見もあるだろうし、やはりベストセラーから入るべきという意見もあろう。
 一冊目として読んではいけない作品なら挙げられる。それは『ダンス・ダンス・ダンス』だ。その作品自体に大きな瑕疵があるわけではもちろんない。が、この作品は緩い連作四作品中の最終作にあたるもので、前3作を読了してから読むのが面白いし、当然理解も深まる。四連作の映画シリーズを、わざわざ四作目から見始める人はいない。
 その連作四作品というのは『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』の初期三部作とそのスピンオフ作『ダンス・ダンス・ダンス』。初期三部作は、主人公「僕」とその相方「鼠」(というニックネームの人間)の物語で、鼠三部作とも呼ばれる。
 それ以降に発表された長編は、ざっくりと「分量」で分けて考えるのが、どんな作品か知るための近道かもしれない。
 文庫化にあたって分巻される分量の、文字通りの長編は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』の五作。
 中編と呼んでもいい分量の、短めの長編は『国境の南、太陽の西』『スプートニクの恋人』『アフターダーク』『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の四作。

 上の分類が主に、作品の形状(連作・長編・中編)によるものだとすれば、内容の違いや執筆スタイルの変化は、発表年順に三作毎に分けてみると把握しやすい。
○ 鼠三部作の時代
 1970年代後半から1980年代初めに刊行された『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』。作家自身も意図せず連作になったものらしい。新人賞を受賞したものの、職業作家としての地歩はまだ確立されていない時期。「親密な人間をはからずも失った主人公が、その現実と向き合い、「生き残り」としてどう生きていくか」が、すべての村上作品に共通している主題の一つではないだろうか。初期作品では、その主題が特に切実に表現されているように思う。
○ 書き下ろし長編制作開始の時代
 1980年代刊行の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』。長編作家としての資質を開花させ、その結果ベストセラー作家となっていった時期。
 前二作品は村上作品中の代表作として、今後も長く読者を獲得していくに違いない。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』はSF冒険活劇小説と抒情幻想小説の優れたミクスチャーであり、対照的に『ノルウェイの森』は、作家自身が語るように、リアリズム小説である。短い期間に、まったく毛色の違う書き下ろし作品をそれぞれに書き分け、どちらも読者を獲得し、どちらも作家固有の作品であるというところに凄みを感じる。
○ 中編長編交互執筆開始の時代
 1990年代刊行の『国境の南、太陽の西』『ねじまき鳥クロニクル』『スプートニクの恋人』。プロ作家としての制作態勢・態度の確立期。この時期から現在にいたるまで、作家は中編と長編を交互に発表していくことになる。
 長編作品を書き下ろしで執筆することは、やはり大変な労力・体力を必要とするものらしい。その発表後には決まって、リハビリテーション的に、海外文学の翻訳をこなし、読者との対話を楽しみ、短編を執筆し、その延長線上で中編を書く、などしていくようだ。長編・中編の交互執筆発表という「リズム」が確立された印象を受ける。
○ 総合小説模索の時代。
 2000年代刊行『海辺のカフカ』『アフターダーク』『1Q84』。この頃には、村上春樹という作家は、すでに日本語を母語とし日本語で作品を書く作家でありながら、世界的なベストセラー作家として内外で認知されている。人称の変化が試みられ、作品の「柄」の大きくなる。なにせ世界的に、万年ノーベル文学賞の有力候補なのだ。
 主人公も、もうどこか隣にいそうだけどいない「僕」ではなく、「神」である作家の造形が綿密に施され、その手中にあって技巧的に動かされる。「親密な人間をはからずも失った主人公が、その現実と向き合い「生き残り」としてどう生きていくか」という主題は相変わらず根底にあるが、初期作品のころの切実さは感じられなくなっている、というのが、私の正直な感想である。
○『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。2010年代に発表されたのは2016年現在、この作品のみ。この作品については、単独で、後述する。
 読まず嫌い読者の方には、「連作四作」「長編五作」「中編四作」それぞれの括りの最初の作品、『風の歌を聴け』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『国境の南、太陽の西』のどれか一冊から読み始めるのが良いのではないか、というのが私の当面の結論になる。
 各括りの最初の作品は、作家の内面から湧き出る必然性によって執筆される。やがて、その作品の存在に作家自身が突き動かされ導かれるように、ときに前作に足りないものを補完するかのように、同じ括りの次の作品が書かれていく。『ダンス・ダンス・ダンス』を「連作四作」括りの第一作として読まない方がいいように、各括りの第二作以降を、第一作未読の状態で読まない方がよい。
 各括りの第一作をまずは試してみて、それが読了できて、さらにそれが幸福な体験であったなら、同じ括りの第二作に進むもよし、違う括りの第一作にトライしてみるもよし、ではないか。

村上春樹のどこか「世界基準」なのか?

 私は長年の村上作品ファンであるが、昨今のノーベル文学賞騒動には興味がない。ただ、長期にわたり世界的に多くの読者を獲得し、ノーベル文学賞候補者に挙げられ続ける文学者が、日本語圏にも現れたことに驚いている。同時に、日本語で書く職業作家は多数いるのに、なぜ彼らは世界市場では通用しないのだろうか、という疑問がわく。
 村上春樹の登場が、日本文学史上の事件であることは間違いない。過去に、日本語の文学作品が文化的ローカリティの一例として、多分に研究対象として、他言語に翻訳され紹介されたことは当然あっただろう。それに対して村上作品は、一般読者向けの現役の文学作品として翻訳され、広く世界中で読まれている。村上春樹は、新しい作品が間違いなく多言語に翻訳されることを確約された、日本文学史上初の作家である。
 以下、村上春樹のどこが特別なのか、考えてみたい。

 まず文章が圧倒的にわかりやすく読みやすい。
 それは達意の文章であり、同時に有効な文章である。デコラティブな美文ではまったくないし、行間を埋めるだけの空文は存在を許されていない。文章としての質量と働きがはっきりとしている、とでも言おうか。文章それ自体が一定価値の意味内容を持つ「信号=シグナル」であると同時に、物語を運んでいくための「媒体=キャリア」になっている、という印象である。
 作品全体を一枚の織物として見たとき、上の明解で明確な文章を縦糸とすれば、横糸になるのは文章が持つ音楽的リズム、優れた比喩表現、そして巧みなストーリーテリングだろう。緩急自在のリズムが心地よく、非凡な比喩表現に接しては読むことの喜びを感じさせ、その上で物語られる世界は精彩に富み、われわれは新しい展望を与えられる。
 そういう性質を持つ文章であるからこそ、どんな言語にであっても、一定以上の能力を持った翻訳者にかかれば、内容や魅力を大きく損なうことなく、その言語に置き換えることが可能になる。
 それに対して、例えば谷崎潤一郎の『細雪』は、会話文の多くが特定時代の特定地域の関西弁によって成立しているわけで、そのニュアンスを他の言語で(同じ日本語という括りの「標準語」であっても)置き換えることは、ほとんど不可能に近い。横糸の素材が特殊すぎて入手不能、コピーの作りようがない、とでも言おうか。もちろんそのことで『細雪』の作品的価値が減ずるものではまったくないのだが。

 作家の文化的な造詣の深さが、世界中の読む者を楽しませる。
 村上作品には、作家が属する戦後世代の若者が受容した大衆文化のアイテムが頻出する。全世界的な流行をみた音楽や文学や映画であることが多い。食べものや料理・調理に関する叙述も洗練されている。多くの場合、登場人物はポップカルチャーに通暁しつつ、ハイブラウな趣味も持ち合わせている。当然、作家自身の趣味嗜好や知識からその都度取り出される項目群に違いない。
 ポップカルチャーを積極的に受容するタイプの読者には、同じ文化の共有者として、作品自体や作中人物に感情移入しやすいところがあるだろう。反面、純文学プロパーの読者には、ポップカルチャーアイテムの、思弁的とは思えない、過剰引用と映るかもしれない。その手の読者は、各アイテムに、必要以上に文中での意味(付け)を探し求め、結果煩雑さを感じることだろう(読まず嫌い読者を生む遠因の一つかもしれない)。

 制作姿勢・態度が特徴的である。
 その制作姿勢は職人的であって、過剰な芸術家意識は感じられない。芸術家として自己陶酔的に自殺する気質の人間ではないし、文学者として自己陶酔的に政治演説をすることもないだろう(日本人ノーベル文学賞受賞者のことをもちろん念頭に置いている。逆に言えば、村上春樹がノーベル文学賞を受賞できないのは、職人(気質)を称揚する賞でない以上、自然なことなのかもしれない)。
 ときどき作中に登場する、自分の能力をごくごく平凡で人並と考えているが、実はその資質が超人的なものだったという主人公キャラクターに重なる部分がある。自分が大作家であるとの自意識に押しつぶされる半グレ小説家の死屍累々を前に、文学者としてのナルシスティックな自意識とはほど遠いところにある村上が世界的大作家として生き残っているのは、半グレの人達にとっては残酷な現実だろう(読まず嫌い読者を生む遠因の一つかもしれない)。
 『源氏物語』が産業化された文学作品となっているように、村上春樹は産業化された作家である。作家本人も、表現者であると同時に適正な商品を世に送り出そうとする商売人である、という捉え方もできるだろう。自作をより広く流通させることを考えるタフな戦略家であるということ。作品には非現実的な場面や表現がたびたび登場するが、作家本人は極めて健康な現実主義者である(読まず嫌い読者を生む遠因の一つかもしれない)。

一番近い「作家」は山下達郎

 作品を作っていく上での姿勢・資質について、日本語を母語とする日本人の中で、もっとも村上春樹に近い印象を受ける「作家」は山下達郎である。山下達郎が「音楽家」であるからという理由で、「小説家」村上春樹との比較が許されないなら勿体ない話だろうと思う。

 村上春樹自身が、山下達郎に言及している文章もある。
「山下達郎さんの「ペット・サウンズ」解説に感動  話はまたまた戻って「ペット・サウンズ」ですが、昨年「ペット・サウンズ」ボックスが発売されたときに、NHK・FMの「ポップスグラフィティ」に山下達郎さんが出て、「ペット・サウンズ」について1時間半しゃべりまくったのですが、これは素晴らしい内容だった。僕は正直言って感動しました。テープにとってまわりの人に聴かせたら、みんな感動していました。途中でとつぜん楽器を持ち出して「ゴッド・オンリー・ノウズ」を歌いだしたりしてね。よかったですよ。聴きました? 聴いてない。それは気の毒だ(ぜんぜん気の毒がってない)。」 『CD-ROM版村上朝日堂 スメルジャコフ対織田信長家臣団』村上春樹(朝日新聞社 2001)より
 山下達郎(1953‐)は1973年からプロとしての活動を開始し、作品デビューから2015年で40周年を迎えた。村上春樹よい、学年にすれば四学年、年下だが、キャリアはより長い。
 思春期に影響を受けた文化と時代背景は、重なる部分が相当にあるようだ。上のビーチボーイズにまつわる話からもそれは推察できる。1960年代末の学生運動期の東京に、村上は関西から上京したての大学生として、山下は東京生まれの高校生として、思春期を過ごしてもいる。
 権威(付け)には一定の疑義を抱き、自作がポップカルチャーの範疇にあることを否定しない。実作者として、大家としての権威よりも、職人としての矜持を求める。プロ意識は驚くほど高い。作品の完成度を追及し、自らの職能を知り、妥協しない。頑固者。山下は、コンディション不良でライブ中止することも多いが、その度ベストコンディションでのライブを空振りに終わった観客に提供してやまない。
 一個人として、政治的ななんらかの方針や意見や信条を持ち、社会の動きに影響されることも当然あろうが、政治性社会性が作品そのものよりも前面に出ることはない(読まず嫌い読者を生む遠因の一つかもしれない)。対照的なのは大江健三郎氏と坂本龍一氏だろう。村上春樹や山下達郎が、デモ活動に参加し、演壇に立ったり一曲披露するところを想像できるだろうか?
 創作上でのメインストリームは、山下達郎なら自身のオリジナルアルバムを作ることだろうし、村上春樹のそれは長編小説を書くことだろう。その合間にそれぞれの多彩な活動が展開される。たとえば、山下が、夫人の竹内まりや氏のプロデュースをしたり、受注を受けて楽曲を作ったりするのは、村上の短編執筆に通じるのではないか。となると、ア・カペラ・アルバムは、翻訳諸作に対応か。1992年10月から続くラジオのレギュラー番組「サンデー・ソング・ブック」は、村上朝日堂などの読者との対話篇を思い起こさせる。

 人生に肯定的であるのも、共通点かもしれない。
 山下達郎が、夫人のアルバムについて書いて、「彼女の歌には『人が生きて行くことへの強い肯定』というテーマが常にこっそりと内包されている」というとき、それは山下達郎本人の歌の根底にあるものでもあろうし、村上春樹の長編の根底にあるものでもあろう。
 ポップソングや物語の中に、作家の主義主張は表立っては現れて来ない。読者がどんな主義主張を抱こうとそれは読者の勝手で、作家は関与しない(読まず嫌い読者を生む遠因の一つかもしれない)。対して、政治的であることを自認する人間は、自らを肯定するために、歴史や人生のネガティブな面を強調する嫌いがあやりしないか。それが長い目で見て、作品を損なうことはあっても良いものにしていくことはないのではないか。

 ふたたび、引用を。
 山下達郎のアルバムを聴く、村上春樹。
「ついくちずさむ山下達郎さんの「ドーナツ・ソング」  今月のドーナツ。
 山下達郎さんの新譜「COZY」に収められた「ドーナツ・ソング」が、当然のことながら、当ホームページの話題になっております。僕も銀座山野楽器の割引ポイントをつかってこのCDを買ってきました(おかげさまで985円で買えました。特製うちわをくれるって言ったけど、もらわなかった)。なかなか楽しいアルバムでした。僕は知らなかったけれど、メールの情報によりますと、「ドーナツ・ソング」ってかつてミスター・ドーナツのCMソングに使われていたのですね。リフレインの部分が心地よく耳に残って、ついくちずさみたくなります。ドーナツ関連のものならなんだって贔屓しちゃうという傾向はたしかにありますが。」
『CD-ROM版村上朝日堂 スメルジャコフ対織田信長家臣団』村上春樹(朝日新聞社 2001)より


同時代を生きる第一世代ファンの人たち

 村上春樹や山下達郎がデビューしたころに、十代後半の多感な時期を過ごし、彼らの作品に接した人間の一部が、最初の読者やリスナーになった。「ファン第一世代」と言っていいだろう。作家が旺盛な創作活動を続ける限り、この年代のファンもまたファンであることを止めない。
 1958年生の私はまさしく、その第一世代のファンだ。しかも双方の。身贔屓かもしれないが、後発のファンに比べれば、作家の同時代人としてそのデビュー期の空気を体感できたこと、その結果、作品に反映される時代背景について理解しやすいこと、ラッキーだと思う。
 ここで私と同世代の村上春樹ファンに登場していただこう。
 佐倉統(1960‐ )だ。2016年現在、東京大学大学院情報学環教授という肩書の佐倉氏だが、山下達郎が中心メンバーだったシュガー・ベイブの『ソングス』が出た年に15歳。村上春樹の『風の歌を聴け』刊行翌年には大学生になっておられる。
 佐倉統『進化論という考えかた』(講談社新書 2002)の「あとがき」から、進化科学者からの小説家村上春樹へのオマージュと言うべき文章を引用する。
「各章のエピグラフを村上春樹で統一したのは、ぼくがいちばん好きな作家だからだ。とくにデビュー作『風の歌を聴け』は、第二作『1973年のピンボール』とともに、最初に読んだときの衝撃が今でも忘れられない。あ、こういう小説もあるんだ! という快い驚き。村上春樹と進化論というのは、接点があまりないような気がするが、広く自然のシステムへの畏敬の念(センス・オヴ・ワンダー)という点では、村上作品の中にいろいろおもしろい研究テーマがあるように思う。誰か研究してみる人はいませんか?
 手元にある文庫の書き込みによると、『風の歌を聴け』を読んだのは、一八年前の一九八四年一一月、二四歳のときである。大学院に進学するちょっと前のころ。進化論に興味をもちつつ、いろいろな違和感も感じつつ、気負いと不安の同居……今にして思えば、ぼくの人生でひとつの転回点の時期だった。青春前期から青春後期への転回点、といってもいい。
 それから二〇年弱、本当にいろいろなことがあった。(中略)そしてこの本を、一八年間学んできたこと、研究してきたことの、ひとつの節目にしよう―――村上春樹にこと寄せたのはそういった思いをこめてのことだ。だから、引用した箇所は、一八年前にぼくが鉛筆で傍線を引いたりしていたところばかりである。まるで進歩がないようにもみえるのが恥ずかしいところでもあるが、こんなことを思うようになったというのは、ぼくの人生も、中年前期から中年後期へと転回しつつある時期だからなのかもしれない。
 そういうわけで、最後も村上春樹からの引用でしめくくろう。まえがきに引用した『風の歌を聴け』の続きだ。
  弁解するつもりはない。少なくともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。つけ加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か年十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、(中略)僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。
 そんなときが本当に来ると、うれしいのだけれど。」
◆   ◇   ◆   ◇   ◆

 今回、短い期間に長編作品13作を通読したが、90年代後半から2000年代に書かれた作品群は、読み始めるまで気が進まなかった。若い頃何度となく読み返した初期作品に比べて、その時期の作品には没入できないところがあったのだ。『スプートニクの恋人』『海辺のカフカ』『アフターダーク』『1Q84』は発売当初に一度読んで、以後再び読むことのなかった作品群だ。どの作品も再読してみると、一回目よりも面白かったのは事実で、それはそれで喜ばしいことではあったが。
 それに対して、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は2013年の発売直後に読んで、その直後に再読再々読、今回四度目の通読となった。

 初版本を読んだ直後、当時の『多崎つくる』評で一番納得できた(そして大笑いした)のは、やはり第一世代のファンと言っていいtwitter名「ynabe39」氏(帯広畜産大学・人間科学研究部門 教授 渡邊芳之 1962‐ )の一つのツイートだった。
 「俺的にはフィンランドではやらなかったところに村上春樹の変化を感じたけどなw」
というもの。
 実は、私も同じ個所を初読したとき、ほとんど同じ感想を持ったのだ。それは、主人公多崎つくると主要登場人物の一人「クロ」こと黒埜エリとの、フィンランドでの再会の場面。私も「ああ、またここで三発ぐらいやるいつものパターンか」と事前に予測しながら読み進めていたが、その予断が見事に外れて、予想がはずれたこと自体に感動したのだった。
 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、「ワンダーランド」サイドの主人公が、図書館のリファレンス係の女の子といっときに三発やる。「我々は三回性交したあとでシャワーを浴び、ソファーの上で一緒に毛布にくるまってビング・クロスビーのレコードを聴いた。」。『ノルウェイの森』では、終盤、主人公がレイコさんといっときに四発やる。「結局その夜我々は四回交った。」。
 それが村上作品の、『多崎つくる』以前の、性的流儀の一つであったわけだ。性行為への無邪気とも思える信頼とでも言おうか。村上作品の性表現の頻出は、性的なものをタブー視する人々には許しがたいらしい(読まず嫌い読者を生む遠因の一つかもしれない)。性表現への嫌悪だけを読後の感想として抱いて終わる読者もいるようだ(木を見て森を見ないというか、チンチンを見て人間を見ないというか)。
 蛇足。何十回となく読み返した『ノルウェイの森』だが、今回、くだんの行為が四回に及んでいることに改めて気づいて驚いた。私のどこかの脳内ジャンクションが溶けかけて、『世界の終り』世界の三発が、『ノルウェイの森』に流れ込んだらしい(というようなことを書くと、その手の人達には、この小文も唾棄すべき「性的に緩い」文章に認定されるだろうか)。

さて、twilogによればynabe39氏は、2013年5月2日に『多崎つくる』を読了された。その日、村上作品に関する氏のツイート群を、リアルタイムで読んで(私は氏をフォローしていた)感心させられること度々だった。以下、twilogから。
「村上春樹を読み終わった。良いものを読んだと感じる。」
「冒頭の2つのパラグラフの「日本語」は素晴らしいなあ。」
「村上春樹、赤旗日曜版の書評はかなり好意的だがやはり「不必要な性描写に辟易させられる」みたいなことが書いてある。この人たちは真面目だからなあ。」
「俺的にはフィンランドではやらなかったところに村上春樹の変化を感じたけどなw。」
「村上春樹を読んでいて思ったけど,自分がもっとも盛んに小説を読んだ中高生時代には小説の登場人物はほとんどの場合その時の自分より年上で,自分は小説の中に自分の未来を読んでいた。いま自分は小説の中に自分の過去を読んでいる。」
「優れた小説が何年かごとに繰り返し読むことを求めるのは小説に書かれた「時代」が自分の歴史の中に占める位置がそのつど変わるからだと思う。「こころ」や庄司薫の作品は自分にとってそういう意味を持っている。」
「村上春樹の主題はいつも身体性と結びつくから性描写は必要だと思う。」
 村上作品について書かれた文章のすべてを読んだわけではもちろんないが、目にした限りの「批評」の中で、ynabe39氏のこのツイート群はもっとも的確でかつ切実なものだと、私は思う。

 多崎つくるとクロの「駆けつけ一発」ではないただの「ハグ」は、記号的に描かれる三回・四回のセックスよりも、肉感的で感情豊かであり、読む者に「しなければならない」切実さを感じさせるものだった。その切実さは、『風の歌を聴け』を20歳前後の読者が読んだときに感じる切実さとごく近いものなのではないか。昔も今も。
 『風の歌を聴け』を初版発行当時に読んだわれわれは、還暦近くなるまで長く村上春樹(作品)ファンを続けることで、21世紀の『風の歌を聴け』として『多崎つくる』を読む機会に恵まれたのではなかろうか。

おわりに

 「小説案内」と題されたこの小文は、果してその役目を果たしただろうか?
 作家とその作品群がこれほど長命になってくると、どの一冊がお薦めとも言えなくなる。全長編作品を含む『村上春樹作品クロニクル』(仮称)という総合作品を想定して、各作品を刊行順に読んで行くのが一番面白いし理解も深まるというのが、短期間に長編13作を通読しての素直な感想である。凡庸極まりない結論になってしまうが。なんのことはない「全集」ではないか。やれやれ。
 とはいえ、冒頭に書いたように、どんな文豪のどんな有名文学作品であっても、読まなければ死んでしまうという話でもない。無理することはない。それでも、なにかの事情で、小説を読まなければ死んでしまうような状況(どんなだよw)にでも陥ったとき、村上春樹作品という選択肢があり、それは決して悪い選択ではないを保証する、と古い読者は告げるばかりである。ピース。

 さて、村上春樹の次なる長編小説は、どんなものになるのだろうか?今までの執筆リズムから考えると、2010年代のうちに、長めの長編新作が出てもおかしくない。
 先に述べたように1979年に20歳前後だった読者のすべては、今や還暦に近い。そんなファン第一世代の多くは、私がそうであるように、村上作品に心動かされときに励まされながら、その人なりの年齢を重ねてきたと言えるだろう。山下達郎のファン第一世代の方々も、その心情を理解してくださるのではないか。新作を期待しよう。まずは健康第一だ。なにしろ、死んだら、読めない。

 私は、村上春樹作品の存在する世界を、肯定する。その世界上で、われわれは、親密な人間をはからずも失い続けているが、その現実と向き合い、「生き残り」としてどうにか生きて行かなければならない。
 この文章は、「やれやれ」ではなく、「ピース」で終わるべきだろう。
 ピース。
 (文中敬称略)

読まず嫌い読者のための村上春樹長編小説案内 ブックガイド

凡例 『書名』著者・編者名(出版社名 初版刊行年) / [田原のコメント]
[随時、追加・追記・修整します]

村上春樹 長編
『風の歌を聴け』1979
『1973年のピンボール』1980
『羊をめぐる冒険』1982
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』1985
『ノルウェイの森』1987
『ダンス・ダンス・ダンス』1988
『国境の南、太陽の西』1992
『ねじまき鳥クロニクル』1994・1995
『スプートニクの恋人』1999
『海辺のカフカ』2002
『アフターダーク』2004
『1Q84』2009・2010
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』2013

村上春樹 文中に登場する本
『若い読者のための短編小説案内』(文藝春秋 1997)
『CD-ROM版村上朝日堂 スメルジャコフ対織田信長家臣団』(朝日新聞社 2001)
村上春樹以外の方々
谷崎潤一郎『細雪』

山下達郎『JOY』
ザ・ビーチ・ボーイズ『ペット・サウンズ』
村上春樹訳『ペット・サウンズ』
山下達郎『COZY』
竹内まりや『Expressions』
シュガー・ベイブ『ソングス』

佐倉統『進化論という考えかた』(講談社現代新書 2002)

「ynabe39」氏=渡邊芳之『性格とはなんだったのか 心理学と日常概念』

夏目漱石『こころ』
庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』

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羊 狼 通 信 ブックレビュー&ガイド 2016年10月 002/120

昭和7年秋、札幌の寺田寅彦


昭和7年秋、札幌の寺田寅彦

 寺田寅彦 (1878―1935)は1932(昭和7)年秋、その生涯において最初で最後の札幌滞在を終え、東京へ帰ってほどなく札幌に住む門下生中谷宇吉郎 (1900-1962)宛に書簡を送っている。
「十月十五日(土) 中谷宇吉郎 消印午後4時―8時
   本郷区駒込曙町二四より札幌市南一条西二十丁目 中谷宇吉郎宛
「御手紙難有拝見致しました。又写真を沢山難有う御坐いました、珍らしく機嫌のいい写真ばかりで、かういふのは今迄自分でも見た事がありません 余程当時幸福を感じて居たものと思はれます。家内の評判によるといろいろの特徴がそれぞれの写真に出てゐるさうであります。焼き増しを願ひ度いのがあるさうで、あとから願出る事と存じます。」 タイムス写真班は大騒ぎであつても結果はちやんと新聞に顔が出たのだから事実上少生のまけであります。まけても仕方はありません、
講義を新聞へ出す事は此れは困ると思ひます。あれはあの時断つた通知識を与へる講義でなくてプロブレムを暗示する講義ですからあれを大衆に読ませたら、それこそとんでもない誤解を起させるばかりで何の役にも立たぬのみか害毒を流すだけと思はれます。唯十分な批判力を具えた諸先生や学生方にはいくらか有益であらうと思つたのであります。それで新聞掲載はどうか御勘弁を祈ります。唯北海道が地球物理学的に非常に面白い処だから北海道大学で大に研究してほしいと云つた事だけは出してもかもひません (後略)」(『寺田寅彦全集 第二十九巻 書簡 5―昭和6年(1931)〜昭和8年(1933)』 岩波書店 1999)
 タイムス(札幌に本社を置く、当時の日刊地方新聞「北海タイムス」)写真班がどんな大騒ぎをして寅彦と勝負をしたのかは定かではないが、寅彦が「まけ」を認めた写真付きの新聞記事は次のようなものだった。
 北海タイムス、昭和七年十月七日朝刊、7面。
 「『地球物理学』と夏目さんの弟子 寺田博士の札幌礼讃  吉村冬彦の文名では其随筆集の一節が小学校の読本などにも載つて居り一般にも有名な地震学の権威東大教授寺田寅彦博士が北大理学部の特別講義に招かれ来札した 地球物理学といふ六ヶ敷い専門の講義であるが『日本の国土はどうして生れたか』といつたくだけた題目を掲げて漫談式な講義振りは頗る好評を博している
◇ ◇
仙台以北は全くの初旅だといふのですべての風物が珍らしく『いや実に変つてゐる』『札幌の花の色は実に綺麗だ』といつた率直な感嘆辞を呈しながら語る
長万部あたりの汽車の窓から見ると山間の道路に殆ど人が通つてゐるのを見受けない、あれが関東あたりだと必ず自動車が飛んでゐたり紅いパラソルなどさへ眼に入る處であるが、今に熊が出て来るのではないかと思つたが熊はでなかつた
◆ ◆
札幌までやつて来て実に北海道は広いと思つて地図を見て見るとまだほんの凧の尻尾の處を来てゐるに過ないので此の奥はどんなに広いのか想像がつかぬ位だ、札幌の樹木はいい 第一樹が大きくその下のローンも美しい 円山で花園を見せて貰つたが鶏頭の花の色が目立つて美しくダリヤなども花が大きいのに驚いた、札幌の街は通が広くそれから何條の何丁目と町名があるのに家がポツポツしか建つてゐないのが珍しかつた、トタン屋根壁がみんな板壁になつて居り壁土を見せてないのも目につく
等々 その印象は流石に細く溌剌といてゐた
◇ ◇
文士新居格は此の頃『現代随筆論』を書きその中に『吉村冬彦氏のものに至つては全く比ちうを見ない独特の色と香りをとを持つてゐる』と推賞してゐるが、その話を持ち出して博士の文歴を訊くと
私は五高時代夏目さんに俳句を習ひ例の『猫』が出る前夜先生の千駄木町時代、高濱虚子氏などと文章会といふのが先生の家で開かれた頃私も、その会に加はり物を書きはじめたのだが、その頃のものを今ひつぱり出して見るとセンチメンタルで自分でも鼻もちがなりません

それから漱石未亡人口述の『漱石の思ひ出』などが話題にのぼつたが実際其思ひ出を繙いて見ると博士の名は吉村冬彦の仮面でなく寺田寅彦の裸のままで随所に活躍して居り博士の今日の文名も偶然でない事が分る(写真は山形屋に於ける博士)」
 この札幌行き帰りについては、寅彦本人・中谷宇吉郎・寅彦の長男寺田東一がそれぞれに文章を残している。タイムス記事の「大騒ぎ」に比較すると、三者三様ながらさすがに落ち着いた内容になっている。中谷・東一両者の文章は、札幌旅行の三年後1935年年末に死去した寅彦の没後追想文であることもあろう。
 寅彦本人の文章は「札幌まで」と題され、東京帰着間もなく10月中に発表された。
 「九月二十九日。二時半上野発。九時四十三分仙台着。一泊。翌朝七時八分青森行に乗る。
(中略)
札幌で五晩泊った。植物園や円山公園や大学構内は美しい。楡やいろいろの槲やいたやなどの大木は内地で見たことのないものである。芝生の緑が柔らかで鮮やかで摘めば汁の実になりそうである。鮭が林間の小河に上って来たり、そこへ熊が水を飲みに来ていた頃を想像するのは愉快である。北海道では、今でもまだ人間と動植物が生存競争をやっていて、勝負がまだ付いていないという事は札幌市内の外郭を廻っても分る。天孫民族が渡って来た頃の本土のさま、また朝鮮の一民族が移って来た頃の武蔵野のさまを想像する参考になりそうである。
札幌の普通の住家は室内は綺麗でも外観が身萎らしい。土ほこりを浴びた板壁の板がひどく狂って反りかえっているのが多い。
(中略)
帰宅してみると猫が片頬に饅頭大な腫物をこしらえてすこぶる滑稽な顔をして出迎えた。夏中ぽつりぽつり咲いていたカンナが、今頃になって一時に満開の壮観を呈している。何とか云う名の洋紅色大輪のカンナも美しいが、しかし札幌円山公園の奥の草花園で見た鎗鶏頭の鮮紅色には及ばない。彼地の花の色は降霜に近づくほど次第に冴えて美しくなるそうである。そうして美しさの頂点に達したときに一度に霜に殺されるそうである。血の色には汚れがあり、焔の色には苦熱があり、ルビーの色は硬くて脆い。血の汚れを去り、焔の熱を奪い、ルビーを霊泉の水に溶かしでもしたら彼の円山の緋鶏頭の色に似た色になるであろうか。
定山渓も登別もどこも見ず、アイヌにも熊にも逢わないで帰って来た。函館から札幌までは赤鱏の尻尾の部分に過ぎないが、これだけ行ったので北海道の本当の大きさがいくらか正しく頭の中で現実化されたように思う。この広大な土地に住む全体の人口は小東京市民のそれより少し多いくらいだそうである。どうも合点の行かないことだと思う。
北海道の熊は古い古い昔に宗谷海峡を渡って来たであろうと思われるが、どうして渡ったか、これも不思議である。大昔には陸地が続いていたのか、それとも氷がつながっていたのか誰に聞いてみても分らない。とにかく津軽海峡は渡れなかったものと見える。熊が函館まで南下して来て対岸の山々を眺めて、さてあきらめて引き返して行ったことを想像するのは愉快である。
寒い覚悟で行った札幌は暖かすぎて、下手なあぶなっかしい講演をやっていると額に汗ばんだ。東京へ帰ってみると却って朝晩はうすら寒いくらいである。そうして熊の出ない東京には熊より恐ろしいギャングが現われて銀行を襲ったという記事で新聞が賑わった。色々のイズムはどんな大洋を越えてでも自由に渡って来るのである。
市が拡張されて東京は再び三百年前の姿に後戻りをした。東京市何区何町の真中に尾花が戦ぎ百舌が鳴き、狐や狸が散歩する事になったのは愉快である。これで札幌の町の十何条二十何丁の長閑さを羨まなくてもすむことになったわけである。」
 中谷の文章は「札幌に於ける寺田先生」(昭和十八年四月)。寅彦の死後二年余りの時を経て発表されたものである。最近『寺田寅彦 わが師の追想』中谷宇吉郎(講談社学術文庫 2014)に収録され、読む機会を持ちやすくなった。
 「昭和七年の秋、寺田先生が、札幌の大学の臨時講義に来られたことがあった。
寒がり屋の先生が、秋に向けて北海道まで来られるというのは、先生一生のうちでも珍しい大事件であった。しかも講演の嫌いな先生が、三日間に亙って北大で臨時講義をされるというのであるから、余程の大決心であったわけである。
実は御長男の東一君が、その年の四月東大を卒業して、北大の物理教室へ助手として赴任していたので、そのことも先生の決心をうながすのに大いに役立っていたようであった。
その話は夏の初めからであって、八月末の手紙では「小生なるべく廿五日頃御地着の予定に致して居ります。題目は「地球物理学的に見た日本の国土」と云ったような事にして、なるべくオリジナルな事を話したいと思っていますが、七月、八月はずっと原稿かせぎに追われ、これから準備にかかるのですから、到底余り纏まったことは出来そうもない」という御たよりであった。
この年坪井忠二君が北大へ来て、地球物理の正規の講義は済ましてくれていたので、先生は本に書いていないことだけ話すつもりだと、大変な御元気であった。しかし「着早々病気でも起こすと大変ですから、今から養生専一にして謹んでいなければならないと存じます。丸で北極探険にでも行くような気持ちで緊張しているのは人が見たら滑稽かも知れません。しかし、何しろ、逗子へ行くのでも九州位へ行くような気持ちだから仕方ありません」と云われるのも、誇張ではなかった。
先生は真夏の間はいつでも元気であったが、九月に入るともう手足が冷えて困るといつも言っておられた。果たして九月になって「小生多分廿三日頃東京発道草を食いながら廿五日に札幌着のつもりであります。胃の方も今の処では大丈夫と思われます」という便りがあって直後、胃がぐずぐずし始めたようであった。そして追っかけて「小生十七日頃から少しばかり胃の調子が狂って大した事はないが、用心のため休んでいます。これはほとんど毎年気温の急降下と共に起こる現象で、養生すればあとは何でもありません」「もし今日にもすっかり気持ちがよくなれば兎に角、さもなければ四、五日位出発を延期した方が安全かと思われます」という風に、まるで「胃袋を風呂敷につつんで」そっとささげるように大事にしながら、北海道までの大旅行を敢行されたである。今から考えて見ると、随分無理なことを頼んだものであった。
結局九月二十九日にいよいよ出発ということになった。その前日朝鮮の安倍能成さんへ「札幌へ行くのが何やかやで延び延びになっているが明日あたりからだの具合がよかったら出かけるかも知れません。どうしてこうも旅行がおっくうなのか自身ながら可笑しい位であります」と手紙を書いておられるが、その何やかやの中には、田丸先生の死という相当深刻な問題もあった。というのは先生が最も敬愛しておられた田丸先生が、日本式ローマ字論の浮沈を決する席上で、病を押して長時間の講演をされ、その為に急にその二十二日に亡くなられたのである。安倍さんへのこの手紙にも「昔からの先生田丸卓郎先生が亡くなられました。先生は御自分のからだを無茶に虐待して仕事の為、人の為に犠牲になって倒れたような気がする」という言葉がある。
こう云う騒ぎで、札幌行が実現することになったのであるが、その蔭には、何といっても東一君の札幌での生活を見たいと云う気持ちが、強い支持となっていたものと思われる。東一君が大学を卒業された時の先生の喜び方は大変であった。
「この老父も御蔭様にて一安心致しもう自分などはどうなってもいいような気持ちが致居候」というような一面が先生にはあったのである。
(中略)
大学の講義は、三日間あって、一日に二時間ずつ三回ということになっていた。その講演草稿は、全集第十七巻の雑記帳の部に納められている。欄外に「坪井君の講義、既知の事、余の講義未知の事、地質学者と地球物理学者の立場」と書かれているように、その講義は如何にも先生の独創の粋を集めたものであった。ちょうど坪井君が正規の地球物理学の講義を済ませてくれた後だったので、特に先生が気を配られたのである。
(中略)
先生の札幌滞在中は、運よく天気がよくて、毎日のように透明な青空に日光が暖かく、十月の秋晴れに恵まれた。
札幌の自然は先生の気に入ったようであった。処女林の秋色や、大通のサルビアの新鮮な赤さを讃美された言葉が、沢山その頃の手紙に残っている。植物園や円山公園の緑の芝生が「柔らかで鮮やかで摘めば汁の実になりそう」なのもひどく喜ばれた。教室の連中や東一君らと、一緒にその芝生の上を歩かれた。そして写真嫌いで有名な先生が、沢山の写真を残された。
後でその写真を送った時の返事には「珍しく機嫌のいい写真ばかりで、こういうのは今まで自分でも見た事がありません 余程当時幸福を感じていたものと思われます」と書いてあった。そして追っかけて「小生御地で写して頂いた写真複写」「急ぎませんから今度御ついでのあった時左記の通り御願い致したいと存じます
○富永さん玄関前で富永さんと並んだの   6
○植物園で右向きに口を明いて馬鹿面をしたの   1
○植物園、右向いて歩いているので両手を背へ廻しスケッチ帳とシガレットを持ったの、帽子あみだ  1
○花屋さんで、左向き、後ろ手に風呂敷包 前面に鎗鶏頭   1
という手紙が来た。「大分慾張っているようですが御寛容を祈ります」という文句を読みながら、先生の写真嫌いを思い出して、まあよかったと思った。
花屋さんで、前面に鎗鶏頭というのは、円山公園の裏にあった採種園での写真である。夏中空気が比較的透明で、紫外線が強く、その割に熱線の少ない北の国では、花の色が眼のさめる程鮮やかである。先生はそのまぶしいような鎗鶏頭の花畑の中に、随分長く立ち停まっておられた。そして「僕は若い頃に、花畑を作って暮らそうと思ったことがあったが、こういう花を見ると、またそんな気になるね」と半分は自分に言われるように小声で話された。
(中略)
先生の随筆『札幌まで』の中には、この鎗鶏頭のことが書いてある。「彼の地の花の色は降霜に近づく程に次第に冴えて美しくなるそうである。そうして美しさの頂点に達したときに一度に霜に殺されるそうである。血の色には汚れがあり、焔の色には苦熱があり、ルビーの色は硬くて脆い。血の汚れを去り、焔の熱を奪い、ルビーを霊泉の水に溶かしでもしたら彼の円山の緋鶏頭の色に似た色になるであろうか。」
この円山の花畑も今は無い。先生が訪ねられた次の年かに、花畑は化して大運動場となった。そして現在は国民服の若い人たちが、そこで鍛錬を受けている。
(中略)
五日間の札幌の生活は、先生の御気に入ったようであった。自然も風物も「すっかり気に入り」札幌の生活を「ハイカラ」とも感じられた。
大学では東一君の実験を見たり、教え子たちが一人立ちで仕事をしている姿も見られた。大沼公園の附近に膨大な地所を持っている池田教授は「先生北海道へ別荘を作られれば土地はいくらでも差し上げます」などと冗談を言ったりした。高嶺先生への絵はがきの中には「是非一度御来遊になって別荘を御作りになっては如何です、千坪二千坪は只でくれるという人があります」とも書かれている。
帰りは途中によらず、真っ直ぐに帰られた。その方が結果が良かったようである。帰京されてすぐの手紙には「帰り道は大変に近いような気がしてちょっと驚いている処であります。三日掛かりで行った道を一晩ねた切りで帰ったせいもあるかと思われます。郷里土佐よりは兎も角札幌の方が心理的に近くになりました」と書いてあった。
先生の「北極探検」もこのようにして、芽出度く成功し、私たちも大安心をしたのである。  (昭和十八年四月)」
 寺田東一が父の札幌旅行に触れているのは「中谷先生と父寅彦」という文章の中で、こちらは恩師中谷宇吉郎と父寅彦の双方に対する追想文である。戦争の記憶も薄れつつある、1966年に書かれたものだ。
「中谷先生がはじめて人工雪の製作に成功されて、色々の型の雪の結晶の生長の条件を明らかにされたのは、もう三十年近くの昔になる。父寅彦が亡くなったのは昭和十年のことで、この朗報に接することは出来なかったが、父の先生宛ての手紙(昭和九年四月二十四日付)には「雪の研究を総がかりでやる作戦計画は至極能率よろしくと存じます。これをもって諾威(ノルウェイ)の北光(オーロラ)に対抗させるも宜しく兎に角日本の大学では無敵であります。千円の研究所は一寸愉快それも天下比類なしと存じます。」とあるように、父は雪の研究には多くの期待を寄せていたらしい。
父が中谷先生と深い交渉を持つようになったのは、大正十三年先生の大学の後期の卒業実験の指導を受持ってから亡くなるまでの十二年間程であるが、その間の事情は中谷先生の「先生を囲う話」「寺田寅彦の追想」その他数篇の随筆や、寅彦の日記書簡によって色々と推察される。この十二年間の父の書簡で全集所載のものは約一三八〇通であるが、そのうち(連名、寄書きのもの含めて)中谷先生宛てのものは約一一〇通で、これは数からいって、小宮豊隆先生宛てのものに次いで多量である。残念なことに、両先生の父宛ての書簡は戦災ですべて亡失してしまった。中谷先生が大変筆まめであり、留学中の先生に対する返信に「毎度御手紙色々面白い御通信を難有う」などと書いてあるところを見ると、なおさら残り惜しいことである。
父は大正八年に胃潰瘍の出血で倒れて、二年間療養生活を送り、大正十一年からポツポツ大学に出はじめた。十二年の震災の調査活動などを期として次第に元気を回復し、十三年になると、年末の日記の後書きに「要するに今年は、数年来眠っていた活力が眼をさまして来たような気がする」と書くまでになった。なおその年の主な事として二十五の項目を掲げてあるが、その第一項には「理化学研究所の所員となった事、中谷君を来年から助手に内約云々」とある。このとき父は四十六歳で、中谷先生とは多分二十二歳の違いであった。大学を離れ理研でのびのびと研究できるようになったときの最初の御弟子として中谷先生が来られたことは、父にとっても大変幸福なことであったと思う。
父が特に中谷先生に嘱望していたことは色々な点で明らかであるが、振返ってみると、この二人には不思議な、因縁的といってよいような共通点があったように思われる。
共に文才に恵まれたこと、夫人をなくしたこと、二人とも四十歳前後に胃潰瘍、肝臓ジストマと種類はちがうけれど大病をしたこと、最後に比較的若くて、悪性腫瘍で亡くなったことなど。しかしまた一方では、中谷先生と父とでは性格から見て、ずい分違う点も見られる。父は自称するとおりいささか引込思案、おっくうがりの点があって、社交的とは云えないところがあったけれども、中谷先生はすべてに積極的で、まめで、対人的交渉が得意で、また非常に話術の才能に恵まれていられた。この話術の点は先生の学生時代の随筆「御殿の生活」によると、すでに小学生の時代から恵まれていたらしく思われる。旧藩主の別邸で奥方や奥女中を相手に度々お伽噺をして聞かせたという追想記である。中谷先生が非常に才能に恵まれていたために、一部には才子と評する人もあったようであるが、先生は軽薄な点は微塵もない善意の人であった。
昭和七年から五年間、私は先生のもとで助手を勤めるようになったが、その際の事情にも、またその就職した七年の秋に父が札幌まで足を伸ばし北大で臨時講義をするようになった事情にも中谷先生の善意に充ちた処置が見られる。この旅行の際に先生が愛用のライカで父を撮られた数枚のスナップは、父の礼状に「写真を沢山有難う御座居ました、珍らしく機嫌のいい写真ばかりで、こういうのは今迄自分でも見たことがありません。余程当時幸福を感じて居たものと思われます。」とあるとおりで、我家の貴重な記念品となっている。
当時先生は札幌の西のはずれ近くの白樺の二、三本植わった家に母堂、夫人、二人の令嬢それに令妹と住んでいられた。研究室の連中と夕食の御招きを受け、先生御手づからサラダをドレスして御馳走されたこともある。当時の先生の服装で思い出すのは英国仕込のスパッツとか称する、靴の上部を蔽うフエルト製のもので、風邪よけになるとかで愛用されていた。これをはいてやや大またに忙しく理学部の廊下を歩いておられた姿が目に浮かぶようである。
父とバイオリンの話は猫の寒月以来有名な話であるが、先生もあるときバイオリンを弾いて、ただし普通の倍位のスピードでさっさと弾いてしまって皆をあっと云わせたという噂を聞いたことがあるけれども、これは虚伝であるかどうか、いつ誰にどこで聞いたかの記憶も不確かな遠い昔のことになってしまった。」(昭和四十一年六月)

昭和7年秋、札幌の南部忠平

 2016(平成28)年9月18日、私は円山公園に足を運んだ。札幌滞在中の寅彦の足跡を辿ってみたくなったのだ。80年以上の時を経ているとはいえ、寅彦と中谷宇吉郎らが見た鶏頭の花の子孫が残ってはいやしないか、確認するもの目的の一つだった。鎗鶏頭がどんな花なのか、WEBで確認しただけで、現物を見ていないのも面白くない。幸い、寅彦たち同様、天候にも恵まれた。
 寅彦らが鎗鶏頭を見た場所は、中谷の文章によれば「円山公園の裏にあった採種園で」「先生が訪ねられた次の年かに、花畑は化して大運動場となった。そして現在は国民服の若い人たちが、そこで鍛錬を受けている」とある。今の円山総合運動近辺で間違いないだろう。
 『さっぽろ文庫12 藻岩・円山』札幌市教育委員会 編(札幌市 1980)にも、「昭和七年(一九三二)大倉山シャンツェが完成したことに呼応するように、円山公園のスポーツ施設を充実しようとする声が大きくなった。」「昭和七年に着工し、九年に竣工した。」(25p 俵幸三 文)という記述があり、建設時期について中谷文の内容と符合する。
 公園・総合運動場から北海道神宮境内まで小一時間散策してみたが、残念なことに結局鎗鶏頭は見つけられなかった。その一方で、新たな発見があった。寅彦や中谷の同時代人としての、南部忠平(1904‐1997)、その人である。
 野球場と陸上競技場の間を北海道神宮の方向に歩いていくと、南部忠平の顕彰碑に突き当たる。1971年に建立されたもので、塑像・デザインは南部の北海中学同窓生の本郷新(1905-1980)によるものだ。この日まで、そんな顕彰碑が円山公園内にあること自体知らなかったし、南部についても戦前の五輪メダリスト程度の知識しか持ち合わせていなかった。
 帰着後、南部忠平関連の文献にあたって、驚いたことがいろいろあった。まずその偉業とそのアスリートとしての資質の高さについて。南部に関して、私はまったく不明だったと言っていい。さらには、寅彦と南部の、因縁話めいた二つの偶然について。寅彦の来札と南部の凱旋帰札の時期が重なっていたこと、そして寅彦が足を運んだその場所に南部の顕彰碑が建っていることである。

 南部忠平は1932(昭和7)年秋、ちょうど寅彦と入れ替わるように、生まれ育った札幌に帰郷した。その年の8月4日ロス五輪において陸上三段跳びで優勝、世界新記録で金メダルを獲得しての故郷への凱旋である。ジャーナリズムの「大騒ぎ」は、寅彦の来札関連記事どころではなく、期間にして8・9・10月、札幌や北海道のローカル紙はもちろん全国的にその「戦果」が称揚され、一挙手一投足が報道された。
 そんなタイミングに寅彦は、南部の生まれ在所札幌にやってきたのである。冒頭に紹介した「『地球物理学』と夏目さんの弟子 寺田博士の札幌礼讃」タイムス記事掲載紙の次の頁には、「久子夫人と相携へ あす南部選手帰郷 昨日コッソリ青森着」という記事が載っているという状況だ。寅彦が札幌を発った3日後、10月8日午後3時29分に南部は札幌駅着、その晩札幌NHKのラジオ放送に生出演。北海タイムス紙10月9日朝刊9面の記事見出しは「『南部万歳』に湧き返る一万の渦 花嫁はこっそり琴似で下車 新郎ひとりで郷里札幌入り」とある。
 寅彦は、1932年8月13日 軽井沢の高嶺俊夫宛の書簡で「(前略)オリムピックで日本の勝つのはいやではありませんが新聞の態度は面白くありません。何もかもジャーナリズムの波に押し流される世の中ではあります。」と書いている。このオリンピックでの日本の勝利とは、南部忠平の優勝を指す可能性もあろう。札幌の地でも、寅彦は南部報道に辟易していたかもしれない。
 寅彦の札幌滞在中には、札幌今井呉服店(後の丸井今井百貨店)で「南部選手戦績展」が開催されている。とはいえそれを知ったところで、寅彦には面白味も興味も感じなかっただろう。北海道の自然や札幌の鎗鶏頭の美しさについて書いても、札幌出身の南部忠平の存在はもちろんそれにまつわるジャーナリズムの「大騒ぎ」について書くことはなかったわけである。
 1932(昭和7)年といえば、3月1日満洲国建国宣言(10月2日リットン調査団報告書公表)、5月には五・一五事件、7月31日ドイツ国会選挙でナチ党第一党、という年だ。翌年1933(昭和8)年1月30日にはヒトラー内閣発足、3月には日本は国際連盟を脱退する、という時代だった。
 寅彦は1932年3月21日小宮豊隆宛の書簡の中で
「今に日米戦争が始まつたら吾々も最早好きな事ばかりやつて居る訳には行かず、殺人器械の研究に没頭しなければならぬ事と思ひます。いつそ飛行機の操縦でも稽古して斎藤実盛気取で米機と空中組打でもやつてみようかといふやうな気がする事もある。此んな風な気のして居る人も存外少なくないやうに思はれるから不思議であります」
と予見している。
 オリンピックは国威発揚の大きな機会と捉えられており、新聞報道等のジャーナリズムの多くが日米間の闘争として競技を表現している。当時のオリンピックは、選手個々にメダルが与えられるのみならず、各国に与えられるポイントを競う国家単位の団体戦でもあったらしい。新聞記事には「日米対決」の文字が躍り、打倒米国の英雄として南部忠平を持ち上げる側面もあっただろう。
 そんな時代背景のもと、ロス五輪と同時期に札幌では「少年少女オリンピック」が、北大グラウンドにて開催されたという。会期は8月14・15日。これもまた北海タイムス紙上で大きく取り上げられている。開催直前に、地元札幌出身の陸上選手が本物のオリンピックで、欧米の選手を打ち破り金メダルを取ったわけだから、それだけでも大いに盛り上がったのではないか。
 ちなみに、そこに皇族の一員として臨席されたのが、澄宮こと現・三笠宮崇仁親王(1915年12月2日 - )である。昭和天皇の弟君は当時まだ満16歳の少年で、競技に参加する若者たちと同世代だった。当然その北海道巡行もまた紙面に大きく取り上げられた。ちなみに、2016年10月現在、三笠宮親王は100歳を越えてご存命で、改めてわれわれは地続きの歴史の中に生きているという思いを強くさせられる。
 さて、二人の間に共通点を見つけるのは難しそうな寅彦と南部であるが、おそらくはともに、世間の日米間の相克を煽る空気に関わらず、落ち着いて彼我の実力差を見極めていたと思われる。寅彦は科学の分野で、南部はスポーツの分野で。敵ではなく、むしろ尊敬すべき競争相手として、欧米列強の人々を眺めていたのではないか。書かれたものを読む限り、寅彦も南部もともに傲岸とか傲慢というような性質とは程遠いところにいる人間に見える。
 札幌訪問の三年後、寅彦はその57歳の生涯を閉じる。関東大震災による焼尽の東京を見たが、大東亜戦争による焼尽の東京は見ないで済んだわけだ。南部は凱旋帰郷の数年後、アキレス腱を痛め現役を退き、以後戦中・戦後にかけ、指導者・協会関係者・教育者としてその足跡を残すことになった。

 円山公園行きの翌週25日、私は大通公園に足を運んだ。鎗鶏頭が西4丁目の花壇にあると、植物に詳しい人から教えられたのだ。この日も天候に恵まれ、ついに鎗鶏頭との初対面を果たした。花壇はいかにも丹精込めて作られており、鶏頭はその「頭」をのびのびと、札幌の透明な青空に向かって、突き上げていた。
 寅彦も大通公園に足を伸ばしている。その当時とは比較にならないほどの大都市になった札幌の、ベンチや芝生の上に座る人たちの隙間を縫うように歩き、花壇により近づいて、鎗鶏頭の花群を、寅彦は見ることがなかった1956年竣工のさっぽろテレビ塔も画角に入れて撮影した。
 最後に寅彦の書簡をもう一つ引用して終わりにしたい(『寺田寅彦全集 第二十九巻』岩波書店 1999より)。寅彦門下生の一人、藤岡由夫への葉書である。大通公園展望写真が印刷された絵葉書で、寅彦文中の「此のプロムナード」が大通公園を指すのだろう。
「十月二日(日) 藤岡由夫 〔絵はがき 札幌市大通公園展望〕 消印3日函館旭川間下一便
   札幌より本郷区駒込西片町一〇 藤岡由夫宛
出発の際はどうも難有う御坐いました、存外元気で昨夜札幌着、今日は中谷君等の案内で植物園や郊外の公園を散歩しました 幸に天気がよく、此国特有の樹林の風光がすつかり気に入りました。(中略)
君も是非一度好季節を選んで遊びに来玉へ。処女林の秋色は実に美しい。尤もまだビールはのまないので此方の研究は帰京の上御報告致します。
〔裏に〕
此のプロムナードは銅像だけ除けば実に気持ちのいい処です。今サルビアの花は満開ですが花の色が東京では見られぬ新鮮な赤を見せて居ます 日の暮近くであつたせいかもしれない」
 札幌の21世紀の鎗鶏頭の風景が「日の暮近く」のものでないことを願うばかりだ。

昭和7年秋、札幌の寺田寅彦 ブックガイド

凡例 『書名』著者・編者名(出版社名 初版刊行年) / [田原のコメント]

【本文中に登場する本】[随時、追加・追記・修整します]
寺田寅彦
『寺田寅彦全集 第四巻 随筆 四 生活・紀行』 (岩波書店 1997)「札幌まで」所載
『寺田寅彦全集 第二十九巻 書簡 5―昭和6年(1931)〜昭和8年(1933)』 (岩波書店 1999)
『寺田寅彦全集 第十七巻 雑纂 年譜/目録』 (岩波書店 1998)「北海道大学に於ける講演草稿(昭和七年)」所載
中谷宇吉郎
『寺田寅彦 わが師の追想』中谷宇吉郎(講談社学術文庫 2014年11月10日 第1刷発行 『寺田寅彦の回想』(甲文社 1947 原本・一部割愛・改題) カバー写真「寺田寅彦(昭和7年、札幌にて。中谷宇吉郎撮影)」)
寺田東一 他
『父・寺田寅彦 くもん選書』寺田東一 他 太田文平編(くもん出版 1992年)
札幌関連
『さっぽろ文庫12 藻岩・円山』札幌市教育委員会 編(札幌市 1980)

【参考図書・関連本・田原のお薦め などなど】[随時、追加・追記・修整します]
寺田寅彦
『寺田寅彦随筆集』小宮豊隆編(岩波文庫 全五冊)
[高校時代に全五冊読了したはず。再読してみると、いかに大きな影響を受けていたかがよくわかる。残念ながら「札幌まで」の所載はない。札幌の高校生だった自分が、その地で「札幌まで」を読んでいたなら、また違った人生を送ることになったような気もする。コンピレーションって難しい…。]
『柿の種』 (岩波文庫 1996年)
『寺田寅彦 漱石、レイリー卿と和魂洋才の物理学』小山慶太(中公新書 2012年1月25日発行)
中谷宇吉郎
『科学の方法』(岩波新書 1958年)
『中谷宇吉郎:人の役に立つ研究をせよ (ミネルヴァ日本評伝選)』杉山滋郎(ミネルヴァ書房 2015)
『雪』中谷宇吉郎(岩波文庫 1994)
南部忠平
『南部忠平自伝』南部忠平(ベースボールマガジン社 1964)
『南部忠平「南部忠平自伝」』人間の記録117(日本図書センター 1999年12月25日 第1刷発行)
『栄光の三段跳び 南部忠平物語』川嶋康男(北海道新聞社 1981)

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羊 狼 通 信 ブックレビュー&ガイド 2016年9月 001/120

「日本世間噺大系」としての『徒然草』


「日本世間噺大系」としての『徒然草』

 『徒然草』の作者とされる兼好(1283頃-没年不詳)を、彼が生きた鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての京都を舞台にした大河ドラマに登場させるなら、「俳優」伊丹十三(1933‐1997)が適役ではないかと私は勝手に想像する。そんなドラマを見てみたいが、残念ながらそれはもう妄想でしかない。
 私は二十歳をすぎてすぐに、「エッセイスト」伊丹十三の諸作品と『徒然草』をほとんど同時期に読んだ。六十歳近くになったいま、若い頃のお気に入りだった彼らの作品を再読していて感じるのは、彼ら二人はごくごく近い、似た者同士なのではないか、ということである。
 伊丹十三は、『問いつめられたパパとママの本』で書いている。
「では、交流がないとなぜ人間は進歩しないのか。
それは「人間は、他との対立によって思考を刺激される」という原則があるのですね。そのためには、未開の、全員同質の社会に閉じこもっているんじゃしようがない。ぜひとも世界を広く持って、己れと対立するものと接触する機会を増す必要があるわけだ。すなわち、人間は「個体の持つ世界の広さによって個体の成長が刺激される」といっていいかと思います。」
 兼好『徒然草』の第百五十七段全文を、対照して読んでみると面白い。
「筆を取れば物書かれ、楽器を取れば音を立てんと思ふ。盃を取れば酒を思ひ、賽を取れば攤打たん事を思ふ。心は、必ず、事に触れて来る。仮にも、不善の戯れをなすべからず。
あからさまに聖教の一句を見れば、何となく、前後の文も見ゆ。卒爾にして多年の非を改むる事もあり。仮に、今、この文を披げざらましかば、この事を知らんや。これ則ち、触るる所の益なり。心さらに起らずとも、仏前にありて、数珠を取り、経を取らば、怠るうちにも善業自ら修せられ、散乱の心ながらも縄床に座せば、覚えずして禅定なるべし。
事・理もとより二つならず。外相もし背かざれば、内証必ず熟す。強ひて不信を言ふべからず。仰ぎてこれを尊むべし。」
 伊丹のいう「交流」「対立」「接触」は、兼好の「事に触れ」の意味をもつだろうし、兼好の「外相もし背かざれば、内証必ず熟す」は、伊丹の「個体の持つ世界の広さによって個体の成長が刺激される」に置き換え可能ではないか。
 彼らのどこがどう似ているのか、そもそもほんとうに似ているのか、なぜ特に彼ら二人が似ていると感じるのか。もし誰かが、双方の作品にふれたとき、やはり彼ら二人が似た者同士であると感じるかどうか。そんな無数の問いが、おのずと、わいてくる。「これ則ち、触るる所の益」だろう。
 伊丹十三もまた『徒然草』の読者だったのか?『徒然草』の存在を知らないとは考えにくいし、なにかの拍子に、ほとんどの日本人がそうであるように、すくなくとも二つ三つの章段には目を通しているにちがいない。それは当然のこととして、伊丹は『徒然草』を全編にわたって精読し、エッセイストの先達として、兼好を意識したりしたのだろうか?

 エッセイという語はフランス語のessayer(=試みる)を語源とするらしい。その文学ジャンルの確立は16世紀のフランス人モンテーニュ(1533-1592)が書いた『Essais』(=エセー 随想録)によるともいわれている。
 日本でふつうに随筆といえば「心に浮かんだ事、見聞きした事などを、筆にまかせて書いた文章、そういう文体の作品」というのが常識的な理解だろう。「心に浮かんだ事、見聞きした事」は、まさしく兼好が第百五十七段でもちいた「事」に重なる。「心は、必ず、事に触れて来る」わけで、その心の動きを導く働きの強いものが、優れた随筆であることも間違いのないところだ。
 一方、モンテーニュをはじめ「試み」る人は、「事」の叙述にとどまらず、「事」の中に「理」を見い出そうとしているかにみえる。「理」、原理・道理・条理・真理・心理などの「理」、ことわり。「事」を描くに優れた随筆と、さらにその奥に「理」を探し求めないではいられない随筆、二つの種類の随筆があるのではないか。
 「事」よりも「理」が勝った随筆を、意識的無意識的にかかわらす、書かずにいられない随筆家の集団の存在が心に浮かぶ。「筆にまかせて」書くことはままならないが、「試み」ることを恐れない性格の。伊丹十三も兼好も「試み」ることを恐れなかった。随筆家を生業としていないことも、存分に「試み」る助けになっただろうし、その「試み」の質をより高いものにしたともいえよう。

 伊丹十三のエッセイでの「試み」は、「事」の随筆の色濃い処女作からの前期四作『ヨーロッパ退屈日記』『女たちよ!』『問いつめられたパパとママの本』『再び女たちよ!』を発表したのち、伊丹独特の叙述スタイルの一つ「談話の活字化」の可能性を追求するかたちで展開する。第五作『小説より奇なり』がそのはじまりとなった。
 その結果、後半三作『小説より奇なり』『日本世間噺大系』『男たちよ!女たちよ!子供たちよ!』では、伊丹の編集が加えられているとはいえ、読者みずからが、未知の他人の談話=「事」の中から、「理」を読み取るという力仕事を要求されることになる。書き手一個人の「事」のみを読みたい読者は、そこでその本を置くしかない。
 『徒然草』もまた、『小説より奇なり』さながら、兼好が生きた時代・土地で見聞きした「世間噺」集成の一面をもつ。『徒然草』中に意外なほど多い、現代人には一見無味乾燥な印象を与える、有職故実の段々の記述も、兼好を含む当時の人々にとっては一種の「世間噺」と捉えられよう。
 伊丹版を「昭和日本世間噺大系」、兼好版は「中世日本世間噺大系」とでも呼ぼうか。そこでわれわれは、「事・理、もとより二つならず(事と理、すなわち現象と真理も、そもそも別個のものではない)」を体現・具現する人間の姿を見ることなる。時代を超えた、似た者同士の姿が現れる。
 鎌倉幕府第5代執権の北条時頼(1227-1263)は、世界的映画スター三船敏郎(1920 - 1997)の姿と重なる。
 『徒然草』第二百十五段全文(「最明寺入道」は北条時頼の別称である)。
「平宣時朝臣、老の後、昔語に、「最明寺入道、或宵の間に呼ばるる事ありしに、『やがて』と申しながら、直垂のなくてかくせしほどに、また、使来りて、『直垂などの候はぬにや。夜なれば、異様なりとも、疾く』とありしかば、萎えたる直垂、うちうちのままにて罷りたりしに、銚子に土器取り添へて持て出でて、『この酒を独りたうべんがそうぞうしければ、申しつるなり。肴こそなけれ、人は静まりぬらん、さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ』とありしかば、紙燭さして、隈々を求めし程に、台所の棚に、小土器に味噌の少し附きたるを見出でて、『これぞ求め得て候ふ』と申ししかば、『事足りなん』とて、心よく数献に及びて、興に入られ侍りき。その世には、かくこそ侍りしか」と申されき。」
 対して、三船敏郎。伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』中の「三船敏郎氏のタタミイワシ」部分。
「友達が集まると、これはどうしても食べ物の話です。味噌汁の話、漬物、魚、野菜、おにぎりの話、白菜が食べたいねえ、お豆腐なんて自分で作れるんじゃないかしら、寿司が食べたい、そうそう、トロなんていうものがあったっけなあ、蕎麦もいいねえ、ザル、モリ、とろろソバ、今、春菊なんかうまいよ、すき焼きに入れてさ、そうそう、芹もいいんだよ、君んとこはすき焼きに芹入れる? いや芹は入れたことない、お餅は入れるけどね、うん、あれはうまいよ、でもお餅は太るからなあ、などと情熱を込め、夜を徹して語る、ということになるのです。
ある時、ヴェニスのリドで、エクセルシオという、超豪華なホテルに泊まっていますと、三船敏郎さんが、夜中にジョニー・ウォーカーの黒札と、どういうわけかタタミイワシを三枚持って、フラリとわたくしたちの部屋に現われました。しかし、タタミイワシを焙ろうにも道具がありませんし、深夜、イタリー人のボーイを呼びつけて、彼らにとっては得体の知れないタタミイワシを焙らせる、なんていうのは、いくらなんでも、気恥ずかしいじゃありませんか。
結局、三船さんが、ちり紙を捻って火をつけ、それでタタミイワシを焙る、ということになったのですが、これは奇妙な光景でしたよ。夏も終わりに近いヴェニスの夜更け、リドの格式高いホテルの一室で、クリーネックスは音もなくオレンジ色の炎を出して燃え、香ばしい匂いが一面にたちこめたのです。そうして、煤けたタタミイワシを肴にジョニクロを飲む、グレイト・ミフネと数人の日本人たち。豪華なような、わびしいような、心の捩れるような思いをしながら、わたくしは遠くまで来てしまったな、とつくづく思ったのでした。」
 日野資朝(1290‐1332 鎌倉時代後期の公卿・後醍醐天皇の側近・討幕計画が露見し刑死)は、世界的俳優ピーター・オトゥール(1932 - 2013)の姿と重なる。 『徒然草』第百五十二段全文。
「西大寺静然上人、腰屈まり、眉白く、まことに徳たけたる有様にて、内裏へ参られたりけるを、西園寺内大臣殿、「あな尊の気色や」とて、信仰の気色ありければ、資朝卿、これを見て、「年の寄りたるに候ふ」と申されけり。
後日に、むく犬のあさましく老いさらぼひて、毛剝げたるを曳かせて、「この気色尊く見えて候ふ」とて、内府へ参らせられたりけるとぞ。」
 第百五十三段全文。
「為兼大納言入道、召し捕られて、武士どもうち囲みて、六波羅へ率て行きければ、資朝卿、一条わたりにてこれを見て、「あら羨まし。世にあらん思ひ出、かくことあらまほしけれ」とぞ言はれける。」
 第百五十四段全文。
「この人、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、かたは者どもの集りゐたるが、手も足も捩ぢ歪み、うち反りて、いづくも不具に異様なるを見て、とりどりに類なき曲者なり、尤も愛するに足れりと思ひて、目守り給ひけるほどに、やがてその興尽きて、見にくく、いぶせく覚えければ、ただ素直に珍らしからぬ物には如かずと思ひて、帰りて後、この間、植木を好みて、異様に曲折あるを求めて、目を喜ばしめつるは、かのかたはを愛するなりけりと、興なく覚えければ、鉢に植ゑられける木ども、皆掘り捨てられにけり。 さもありぬべき事なり。」
 対して、ピーター・オトゥール。伊丹十三『女たちよ!』「奴隷の快楽」部分。
「ピーター・オトゥールは、彼がアイルランド人であるということを抜きにしては決して理解できない。
ある時香港のペニンシュラというホテルで彼は支配人と大喧嘩をした。このホテルの規則として夜中の十二時を過ぎると中国人は一歩もホテルの中へ立ち入ることができない。こいつが彼のアイルランド魂を刺激したのである。英国の鼻持ちならぬ植民地主義者根性だというのだ。
その晩、彼は香港を夜中まで飲み歩き、その間知りあったタクシーの運転手や人力車の車夫、レストランのボーイ、バーの酒番など、およそ一連隊の中国人を、ペニンシュラ・ホテルの自分の部屋に引っ張り上げて大酒盛をやってのけたのである。
翌日彼はホテルを追い出された。

それから何日か経って、私はピーターと晩めしを食べにジミーズ・キチンという店へ出かけた。
この店は香港では数少い英国風のレストランであって食物は甚だしく不味い。客は大半が英国人である。
ところで植民地の英国人たちは、給仕を呼ぶのに「ボーイ」という。本国でなら当然ウェイター・プリーズというべきところを「ボーイー」と尻上りにいうのが植民地通なのだという。
ピーターは、周囲から聞えてくる、この「ボーイー」を我慢しているうちに次第に蒼ざめてきた。給仕を呼ぶ時にも、わざと聞えよがしに「ウェイター・プリーズ」と大声で叫ぶのであるが、周囲の客たちの声高な談笑に掻き消されてなんの効果もなかった。
「いいかい、タケちゃん、ここにいる英国人どもは、本国へ帰ったら便所の清掃人夫にさえなれない連中ばかりなんだぞ。便所の清掃人夫にさえなれないんだぞ。そういう連中なんだぞ。わかるか、タケちゃん」
彼が一層大声を出してそういった時には、周囲は一段と喧噪をきわめていたのである。
結局、ピーターはすっかり悪酔してしまった。私の肩につかまりながらホテルにたどりついた時、彼はまだ弱々しく
「奴らは便所の掃除人夫にもなれんのだ。ほんとだぞ。タケちゃん。便所の掃除人夫にもなれんのだぞ。ほんとだぞ」
と呟いていた。」
 「トイレットの中の賞状」末尾部文。
「ピーターは芯から舞台の人間で、映画はあまり好きではない。自分の出演した映画すら一本も見ていないのである。
ハムステッドにある彼の家にゆくと、トイレットの中に「アラビアのロレンス」で獲った様様な賞が壁一杯にかけてあった。」
 兼好と伊丹十三、存分にessayerしたと思われる二人は、ともに散文作品を書くという「試み」を終えたのちは、二度とまとまったエッセイ集を書かなかった。「試み」る者は、「事」の中に「理」を見い出し、「二つなら」ぬ「事・理」を自分の思うように書き綴ったとき、あえて随筆を書き続けることに大きな意味を見い出せなくなるのではないか。伊丹のその後を見れば明らかなように、「試み」は違う場所=ジャンルで行われることになる。
 伊丹の「試み」はそののち、みずからが編集長となる雑誌「モノンクル mon oncle」(朝日出版社 1981年創刊 6号で終刊)の編集・発行にうつり、さらにまたそののち、結局彼にとって最後の「試み」となる商業長編映画作品制作にむかった。今現在、世間にもっとも広く認知されているのは、その「試み」の結果としての「監督」伊丹十三だろう。
 兼好はその生涯のあいだ、その「試み」の成果『徒然草』が広く世間に認められるどころか、書かれたことすらほとんど知られないままだった。同時代の誰も生前の彼を随筆家として認め得なかっし、彼自身もまたそれを自認することはなかったろう。なにせ兼好は、モンテーニュの「試み」の250年も前に生きた人間なのだ。そして、没年が公に記録されることもなく一生を終えた。
 伊丹作品も『徒然草』も、ある人間を他の人間と対比する「試み」であり、自身の思考を刺激する「試み」であり、自分たちが持っている世界の広さを測る「試み」であり、思考の刺激によって自分という個体の成熟がどう図られるかという「試み」の成果物であった。
 彼らが試みたのは「自分とは何か」を探求することだったのではないか。彼らは書くことによって「自分自身を試みた」のではないか。そこから現れてくる「理」を追及したのではないか。伊丹も兼好もそのけっして分量としては多くない散文作品の中で、その「理」を書きとどめることで、彼ら自身の彼らなりの成長と成熟を、本文とその行間に記述していくことになったのではないか。

私の『徒然草』

 さて、私が常に身近に置いている「徒然草」本は、岩波文庫の『新訂 徒然草』西尾実・安良岡康作校注(1985年1月16日 第70刷改版発行)である。西尾実(1889 - 1979)の校注で戦前から長く発行されていた岩波文庫版『徒然草』(1928年12月25日 第1刷発行・1965年8月16日 第46刷改版発行)は、西尾の教え子で娘婿でもある安良岡康作(1917 - 2001)の大幅な校注を加えられて、新訂版として生まれ変わった。
 安良岡康作は、私の大学時代の恩師だった。安良岡先生は、1981年4月より専修大学文学部教授に着任。まさしくそのタイミングで、私は専修大学文学部国語国文学部学部生3年次生として、新設された安良岡ゼミへ加わった。
 お恥ずかしい話だが、私は、日本の中世文学についても、兼好や『徒然草』についても、安良岡先生の過去の優れた業績についても、何も知らなかった(今も何かを知っているとも思えないが)。にも関わらず、ゼミ員10名(男女共に5名)のゼミ長を仰せつかった。おそらく単に私が二浪をして入学した最年長者だったからだろう。
 それからの二年間、ほかの授業については勤勉な学生ではまったくなかったが、週一回の『徒然草』注釈を中心とするゼミ授業には欠席することなく、1983年3月に専修大学を卒業した。卒論は「徒然草の批判精神」と題したもので、捨てるわけにもいかず今も手元にあるが、改めて読んでみたいと思わせる代物にもならなかった。

 ゼミでのテキストは、旺文社文庫の安良岡康作訳注『現代語訳対照 徒然草』(1971年9月1日 初版発行)が使われた(岩波文庫『新訂 徒然草』は、残念ながらまだ発行されていない)。  第一回ゼミに取り上げられたのは、第五十二段。安良岡先生「得意の段」だったらしい。「仁和寺にある法師」が、歩き疲れてもう山の上まで登りたくないなあと思うに至ったその過程を旅程から詳細に検証した章段で、石清水八幡宮はその山の上にこそおわします、というオチ。
「仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。」
 その『現代語訳対照 徒然草』解説の末尾で、安良岡先生は書かれている。この中に登場するかぎ括弧付きの「理」は、兼好の使う「理」の語に通じるものだろうか。
「現代のわれわれは、われわれの現実を生きるほかはない。したがって、兼好の生きた中世に復帰することはできもしなければ、その必要もないと言えよう。しかし、もしわれわれが、彼が『徒然草』の中に樹立した、この「理」を忘れるならば、即ち、いたずらに現実に押し流されて、自己を喪失したり、他者の批判に追われて、自己を確立する道を忘れてしまったりするならば、われわれの信奉する、近代的原理といえども、その真価を発揮することはできないであろう。われわれは、現実を生きるためには、何よりも、自己を見つめ、そこに、真実に自己の個性的人間性を生かす「理」を求めるべきであろう。『徒然草』が、単なる文学作品以上に、われわれに迫り、われわれを導く力を示すのは、かかるわれわれの生き方の問題と結びつくがためである。古典としての『徒然草』の価値は、かくして、今も新たなるものがあることを知らなくてはならない。」
 兼好が遁世者として仏道修行に励むその姿勢よりも遥かに高く強く、安良岡先生は研究者としてほとんど修業に近い態度で中世文芸の諸作に対峙しておられたのではないか、と思わせる一文ではないか。 安良岡先生のご子息で作曲家の安良岡章夫氏が書いておられる、安良岡康作校注『正法眼蔵・行持』上下(講談社学術文庫 2002年1月10日 第1刷発行)解説文を読むと、その思いはさらに強くなる。『正法眼蔵・行持』は、安良岡先生が亡くなられた直後に発刊された遺作である。
「「教育者」としての父は、自分の学問への姿勢と同じものを教え子にも要求したようで、作品解釈に関する彼らへの指摘は容赦なく、日々真に厳しいものであったそうだ。七十四歳で一切の教職を去るまで、このことも尽きることなく連続していたようである。自宅での研究生活に入ってからも、よく電話で「論文を書くように」と叱咤激励していたことがあった。「物書き」「教育者」としての私にも、幾らかは父の血が流れていると思うことがある。」
 私の在学中も、その厳しさゆえに、できるだけ労力少なく単位を取得しようとするような学部生たちには評判が悪かった。その証拠といってはなんだが、三年次でゼミ長になった私は四年次になってもただ一人の後輩ゼミ生を迎えることなく、二年連続のゼミ長をつとめることになった。一種の風評被害というしかない。
 その厳しさは理不尽やしごきやスパルタであったわけではまったくないのだから。そして、せっかく安良岡先生という優れた(ときに浮世離れしてお茶目な)「先達」に出会う機会があったのに、みすみすそれを逃した後輩たちを少し残念に思う。
 ふたたび安良岡章夫氏の解説文を。
「父のこの姿勢を「行持」と結びつけてはいけないだろうか。第一章「行持の総説」には「仏祖の大道、かならず、無上の行持あり。道環して、断絶せず、(中略)しばらくの間隙あらず、行持道環なり」とあり、口語訳に拠れば、「行持(仏行の持続)は環の如く、尽きることなく連続していて、断ち切れることがない。(中略)その間に少しのすきまが存しない。これが行持の道環なのである」。この道元の言葉に最晩年の父は、自らの学問の歩みとを重ね合わせ、共感していたのではないだろうか。」
友とするにあらま欲しき先達

 さて、その安良岡ゼミで、私が見聞きした小さな一つの場面を書き残しておこう。
 ゼミ開設一年後の新学期、自分を含む持ち上がり四年次10名の中に、新規ゼミ参加者男子1名が、突如登場した。なぜか五年次生での参加で、すでに述べたように三年次0名のゼミは、より均衡を欠くことになった。
 その五年次生が、何度目かのゼミに参加したさい、『徒然草』及び兼好について、斜に構えた感じで、安良岡教授に問いかけた。
 「『徒然草』や兼好は、中世の政治的混乱になんらかの役割を果たすことができたんですか?」
 安良岡先生は端的に、「できなかったでしょうね」と答えた。
 五年次生、「『徒然草』には、政治的な意味とか働きとかはなかったということですか」
 安良岡先生は端的に、「なかったでしょうね」と答えた。
 議論にもなにもならないことに拍子抜けしたのか、五年次生は少し『徒然草』から離れた質問をした。「じゃあ、誰がその中世の政治的混乱を鎮めたんですか?」
 その答えは、聞いてしまえば「それはそうだ」と誰もが納得するものであったが、文学部国語国文学科の中世文学を研究の専門領域とする教授の口から出てくると、やはりちょっと意外な感じを受けるものだった。他のゼミ員たちも同様に感じたのではないだろうか。
 「織田信長でしょうね」、と安良岡先生は言い切った。
 五年次生はそれなりに納得したものか、もう質問をすることもなく、以後文学部生としてゼミの先輩の後輩たちとも良好な関係を保つことになった。

 なぜそんなことを三十年以上の時を隔てて、改めて思い出したのか。この文章を書くための参考として読んだ、島内裕子校訂・訳の兼好『徒然草』(ちくま学芸文庫 筑摩書房 2010年4月10日 第一刷発行)に、まさしく安良岡先生の答えに重なる叙述を見い出したからである。第二百三十八段の評の中で、島内氏は書いておられる。
「兼好は現実政治に参画して、世の中を動かすことはしなかったが、徒然草が書かれたということは、永い目で見れば、より大きな文化的な役割を、決定的に果たした(中略)。徒然草が果たした文化的な役割とは、簡単明瞭な文体の手本を示すことによって、誰もが書ける散文世界の扉を、一挙に押し開いたことである。」
 『徒然草』第百十七段を、兼好自身、現実政治のようなものに参画する気もなかったことの傍証として引く。
 「友とするに悪き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身強き人。四つには、酒を好む人。五つには、たけく、勇める兵。六つには、虚言する人、七つには、欲深き人。
よき友、三つあり。一つには、物くるる友。二つには医師。三つには、智恵ある友。」
 織田信長を代表とするような英雄・偉人の多くは、「友とするに悪き者」七か条に多く該当するではないか。対して、歴史的に見れば、無名人を生きた兼好は、入れ替わり立ち代わり現れ消える英雄・偉人たちの消長を尻目に、「智恵ある友」として『徒然草』というよき物をくるることで、「より文化的な役割を、果たし」ていると言えるのだろう。700年以上の永きにわたって。

「虚空よく物を入る」あるいは伊丹十三の「からっぽ」

 最後にまた、伊丹十三氏に登場願うことにしよう。「永い目で見れば、より大きな文化的な役割を、決定的に果たした」と思われる兼好と、これから同様の評価がなされていくのではないかと思われる伊丹十三だが、英雄・偉人どころか、ともに「自分は空っぽの容れ物に過ぎない」という自己認識を抱いていたふしがある。
 『徒然草』第二百三十五段全文。

「主ある家には、すずろなる人、心のままに入り来る事なし、主なき所には、道行人濫りに立ち入り、狐・梟やうの物も、人気に塞かれねば、所得顔に入り棲み、木霊など云ふ、けしからぬ形も現はるるものなり。
また、鏡には、色・像なき故に、万の影来りて映る。鏡に色・像あらましかば、映らざらまし。
虚空よく物を容る。我等が心に念々のほしきままに来り浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心に主あらましかば、胸の中に、若干の事は入り来らざらまし。」
 前半で「空っぽ」の否定、中盤で「空っぽ」の現象考察、最後に「空っぽ=虚空」の肯定、という忙しい章段だが、兼好が結論として虚空を肯定的に捉えているのは不思議ではない。そもそも兼好は主のない心に「移り行くよしなし事」を書きつくることから『徒然草』を始めたのだから。
 『徒然草』序段全文。
 「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」
 確かに、「心に主あ」れば(たとえば「天下布武」のスローガンのような)、「若干の事」=「よしなし事」も「入り来」ることもなく、われわれのもとに『徒然草』が届けられることもなかったろう。
 関川夏央(1949‐ )による、新潮文庫版『ヨーロッパ退屈日記』(新潮社 2005年3月1日発行)解説文では、伊丹十三の「からっぽ」がクローズアップされる。
 「伊丹十三はその著書のなかで、しきりに自分は無内容である、中身のない器にすぎないと強調している。たんなる自虐のポーズとはうけとれない真剣なふしがある。   「(わたくしは)どちらかといえば無内容な人間である。そうして明らかに視覚型の人間である」(『ヨーロッパ退屈日記』)」   「私自身は――ほとんどまったく無内容な、空っぽの容れ物にすぎない」(『女たちよ!』)   「私はクワセモノではないだろうか。若い時から心の中に立ち籠めていた、このもやもやとした疑惑が、今や凝ってひとつの固い黒光りのする確信となって私の心の中に残ったね」(『再び女たちよ!』)   ときどき伊丹十三は苦く自己省察する。そしてそのたびに眉間の皺は深くなり、同時に、その文章表現における倦怠感の味わいは増し、身にまとった無常感はより澄明となる。   むしろこういおう。伊丹十三は「偉大な器」であった。彼はその生涯をつうじて、デザイナーであり、俳優であり、作家であり、CFタレントであり、テレビ番組制作者であり、雑誌編集者であり、映画監督であった。そして、そのどのジャンルにおいても一流であった。同時に、どのジャンルにおいてもやがて「退屈」せずにはすまされぬ、やや不幸な天才であった。」
 最後の一文は、兼好の生涯を概述するのに、そのまま使えよう。
「兼好は「偉大な器」であった。彼はその生涯をつうじて、歌人であり、能書家であり、有職故実研究家であり、珍香の収集家であり、代書家であり、最後の宮廷人であり、仏道修行の遁世者であり、『徒然草』の作者であった。そして、そのどのジャンルにおいても一流であった。同時に、どのジャンルにおいてもやがて「退屈」せずにはすまされぬ、やや不幸な天才であった。」

 「虚空」を抱えた人間は、その虚空を満たす「試み」を続けない限り、「退屈」という「けしからぬ形」に虚空を塞がれてしまう。伊丹も兼好も、ともに空っぽな人間であったこと、「退屈」には耐えられない人間であったことが、作品の中に多くの物を含ませることになったように思える。
 兼好もまた眉間の皺を深くさせていたかどうかは知りようもないが、『徒然草』の叙述内容の変遷・変化を見る限り、「身にまとった無常感はより澄明とな」っていったのは間違いないだろう。
 『徒然草』と伊丹十三のエッセイ諸作は、友とするによき本であることは間違いない。
 彼らが試みた「自分とは何か」の試みの成果に触れることで、われわれも「自分とは何か」を探求することになる。その「事」によって、われわれは「自分自身を試み」る一生を送ることになる。そこからおのずと現れてくる「理」こそが、われわれが生きた証だと、私には思える。
 われわれの誰もが持ち合わせるそれぞれの、大きさもそれぞれの、虚空は、われわれが生きる世界の「事」のすべてを収めるには小さ過ぎるが、次々に通り過ぎる「事」の中から汲み取った「理」を収めるには十分な大きさなのではないか。
 問題は、その自分自身の虚空に誠実に正対し続けられるかどうかだ。
 兼好や伊丹十三のように。英雄や偉人たちとはまた違った種類の孤独を抱えながら。

「日本世間噺大系」としての『徒然草』 ブックガイド

凡例 『書名』著者・編者名(出版社名 初版刊行年) / [田原のコメント]

【本文中に登場する本】[随時、追加・追記・修整します]
「徒然草」
『新訂 徒然草』西尾実・安良岡康作校注(岩波文庫 1985年1月16日 第70刷改版発行)
『徒然草』西尾実校注(岩波文庫 1928年12月25日 第1刷発行・1965年8月16日 第46刷改版発行)
安良岡康作訳注『現代語訳対照 徒然草』(旺文社文庫 1971年9月1日 初版発行)
島内裕子校訂・訳 兼好『徒然草』(ちくま学芸文庫 筑摩書房 2010年4月10日 第一刷発行)
[兼好の歴史的評価については、島内裕子『徒然草』の記述に同意したい。 「兼好は、物事の起源に強い関心を示した。その兼好が、日本文学史の中で、「散文で自分の心を、情理一体にして、あますところなく表現し尽くす」というジャンルの「起源」となったと思うと、まことに興味深い。」島内「徒然草」435p228段評]
伊丹十三のエッセイスト時代の諸作
『ヨーロッパ退屈日記』伊丹一三(ポケット文春 1965年)
『女たちよ!』(新潮文庫版 2005)
『問いつめられたパパとママの本』(中公文庫 改版 2011)
『再び女たちよ!』(新潮文庫版 2005)
『小説より奇なり』(文春文庫版 1986)
『日本世間噺大系』(新潮文庫版 2005)
『女たちよ!男たちよ!子供たちよ!』(文春文庫版 1984)
新潮文庫版『ヨーロッパ退屈日記』(新潮社 2005年3月1日発行)
[伊丹十三のエッセイは、日本文学史上の随筆作品群として記憶・記録・定位・鑑賞されるべきである。それは彼の映画作品が、日本映画史上の作品として記憶・記録・定位・鑑賞されるのと同価値であると言っていいと思われる]
安良岡康作の著作
安良岡康作校注『正法眼蔵・行持』上(講談社学術文庫 2002年1月10日 第1刷発行)
安良岡康作校注『正法眼蔵・行持』下(講談社学術文庫 2002年1月10日 第1刷発行)
伊丹十三編集の雑誌
「モノンクル」(朝日出版社 1981年創刊 6号で終刊)
『エセー』モンテーニュ
『エセー』モンテーニュ 原二郎訳(岩波文庫)
[モンテーニュとその書き残したものについては、いずれこの『羊狼通信』の中で取り上げることになろうかと思われます」]


【参考図書・関連本・田原のお薦め などなど】[随時、追加・追記・修整します]

徒然草・兼好法師関連
『兼好法師家集』(岩波文庫) 西尾実校注(岩波書店 1937)
『中世和歌集 室町篇』(新 日本古典文学大系 47) (岩波書店 1990)[「兼好法師集」所収]
『西行と兼好』(角川選書) 風巻景次郎(角川書店 1969) [「家司兼好の社会圏」所収]
『増補「徒然草」の歴史学』五味文彦(角川書店 角川ソフィア文庫 2014年)[兼好の家司時代の職種は「滝口」であったという新説の記載あり]
『徒然草論』(笠間叢書) 稲田利徳(笠間書院 2008)
『近世兼好伝集成』川平敏文(平凡社東洋文庫 2003年刊)
『絵巻で見る・読む徒然草』海北友雪 絵巻/島内裕子 監修/上野友愛 訳・絵巻解説(朝日新聞出版 2016)
『徒然草 全訳注』(一) (講談社学術文庫) 三木紀人(講談社 1979)
『徒然草抜書』(講談社学術文庫) 小松英雄(講談社 1990)
『Essays in Idleness』ドナルド・キーン 翻訳 (タトルクラシックス 『徒然草』英文版)(チャールズ・イ・タトル出版 2006)
『モオツァルト・無常という事』 (新潮文庫) 小林秀雄 (新潮社 1961) [「徒然草」所収]
『『徒然草』を読む』(講談社文芸文庫) 杉本秀太郎(講談社 2008)
『吉原徒然草』上野洋三 校注(岩波文庫 2003)
伊丹十三関連
『伊丹十三の本』「考える人」編集部 編(新潮社 2005年刊)
『中年を悟るとき』ジャンヌ.ハンソン 伊丹十三・訳 南伸坊・画(飛鳥新社 1996年9月19日)
安良岡康作関連
徒然草全注釈 上巻 (日本古典評釈・全注釈叢書)(角川書店 1967)
徒然草全注釈 下巻 (日本古典評釈・全注釈叢書) (角川書店 1968)

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